風車が回る限り
これはリリアたちが村を発った後のお話…
ヴェグシャイト。
荷車に揺られている。雪が降っている。吐く息が白い。
マーカスは襟を立てた。寒い。ギルド支給の旧制服は保温性能だけは悪くないが、それでも寒い。荷車の上は風が当たる。歩くよりましだが、ロバは急がない。
村が見えてきた。
——何かおかしい。
寒くない。
さっきまで肌を刺していた冷気が、ふっと消えた。風が動いている。村を囲むように、ゆるく回っている。温かい空気が渦を巻いて、外の冷気を押し返している。
荷車がそのまま通り抜けた。壁のように硬いわけではない。ただ、通った瞬間から、空気の質が変わっている。
門をくぐった。
雪が積もっていない。
石畳が露出している。屋根に雪がない。村人が外を歩いている。子供が走り回っている。
風車が回っている。村はずれの、あの風車。風がないのに回っている。
籠城明けの村とは思えなかった。
◇
ギルドの仮設事務所。
受付のイルマが立ち上がった。
「マーカスさん。お待ちしていました」
マーカスは周囲を見回した。屋根が直っている。壁のひび割れも塞がっている。通りの脇に空の木箱が積んである。補給も届いているらしい。
「……外の風は」
「グランドマスターが張ってくださいました。籠城で体が冷えきった方が多くて」
「あの風車か」
「はい。風車に魔力を込めたと。風車が回る限り、風の壁は持つそうです」
「屋根も?」
「はい。天狼の亡骸も、風で山にお返しすると……弔いだと仰って」
マーカスは、黙った。
「……物証は」
イルマの顔が曇った。
「……ないんです。天狼の亡骸は風で山に。広場の石畳にも何も残っていなくて」
「何もない?」
「朝には消えていました。茶色い染みがあったはずなんですが……」
マーカスは溜息をついた。
俺が着く頃には、いつも片付いてる。今回はリリアではなく、グランドマスターのせいだった。——いや、半分はあのヒーラーのせいだ。
◇
奥の部屋から声が聞こえた。
「あ、来た来た。遅かったね」
椅子に座った女が、茶碗を片手にこちらを見ている。
銀髪のショートカット。革のコート。足を組んでいる。
マーカスは敬礼した。
「グランドマスター・カタリナ。お待たせしました」
「やめてよその呼び方。カタリナでいい。座って」
マーカスは向かいの椅子に座った。
イルマが茶を持ってきた。マーカスが一口飲む。
「……薄い」
「しょうがないでしょ、籠城明けなんだから」
カタリナが自分の茶碗を振った。中身はほとんど残っていない。
「私もう三杯目。もうお湯と変わらない」
◇
カタリナが報告書を滑らせた。
「先に読んだ。はい」
マーカスが受け取る。ページをめくる。
『天狼百頭以上、「神の食べ物」により全滅。フェンリルは神格喪失・子狼化、山に帰還。死者ゼロ』
「……神の食べ物」
「そう。ヒーラーが治療用に出した食べ物。天狼がそれを食い荒らして、全部死んだ」
マーカスはペンを取り出した。メモを取ろうとして、止まった。
「……なぜ死んだんだ」
「分からない。村の誰にも分からない。人間は食べても平気だったのに、天狼だけが死んだ」
何を書けばいい。『討伐方法:神の食べ物』。こんなもの提出したら、俺の正気を疑われる。
あのヒーラーの報告書は、もう棚が一段埋まっている。どれもこれも荒唐無稽で、どれもこれも物証だけは揃っている。
——今回は、その物証すら残っていないわけだが。
「まいったね、これ」
カタリナが言った。マーカスの言いたいことを、先に言った。
◇
「で、面白いのはここから」
カタリナが足を組み替えた。
「ここに来る途中で二つの村に寄ったんだけどさ。どっちでもサンドベアーの話を聞いた」
「サンドベアー?」
「南の砂漠の生き物。こんな北にはいないはずなんだけど、今年の夏、山の中腹まで上がってきて、めちゃくちゃに荒らしたんだって」
マーカスはメモを取り始めた。
「山にはリザードマンがいたはずだ」
「いた。サンドベアーに縄張りを荒らされて、追い出された。追い出されたリザードマンはどこに行ったと思う?」
「……天狼の餌場か」
「そう。リザードマンが天狼の餌場に入った。天狼は餌場を失った。冬になって食べるものがない。人里に降りてきた」
カタリナが指で順番を示した。
「サンドベアー、リザードマン、天狼、人間。順番に押し出されてる」
マーカスはペンを止めた。
「……全部繋がってるのか」
「で、面倒なのはここからなんだけど」
カタリナが茶碗を置いた。
「サンドベアー、もう南に帰ってるんだよね」
「……帰ってる?」
「夏だけ北上して、冬になったら勝手に戻った。犯人はもういない」
マーカスは黙った。
「でも荒らされた山は元に戻ってない。リザードマンは帰る場所がない。餌場は壊れたまま。来年の夏、またサンドベアーが来たら——」
「同じことが起きる」
「そういうこと」
カタリナが天井を見上げた。
「天狼を百頭殺して解決、じゃないんだよね。根っこは山の獣の均衡が崩れてることだから。ギルドだけじゃ無理。バルドリック先生のところ——王立魔導研究所と組まないと」
◇
マーカスは報告書のフェンリルの項目に目を落とした。
『フェンリル:神格喪失、子狼化、山に帰還』
「信仰者がいたそうだ。フェンリルの怒りだと言っていた」
「ああ、報告書に書いてあった。摂理がどうとか」
「摂理じゃなかった。ただの押し出しだ」
カタリナが首を傾げた。
「まあね。でも信仰者の気持ちも分からなくはないよ。目の前で神様が子狼になっちゃったんでしょ。きついよ、それは」
「……神格を手放して、ただの飢えた狼だった」
「群れの子狼たちと一緒に山に帰ったんなら、最初から——ただの狼だったのかもね」
マーカスはペンを動かした。何か書こうとして、やめた。
『神の食べ物で神の眷属が全滅し、神が神をやめた』
報告書には書けない。でも事実だ。
◇
「生き残りの狼を逃がしたのは?」
「コンラートという討伐隊長の判断です。信仰者の進言を受けて」
「いい判断。全滅させてたら五年後にもっと面倒になる。山の獣の均衡が余計におかしくなる」
マーカスが頷いた。
「子狼化したフェンリルの追跡は」
「しなくていいよ。山に帰ったんならそれでいい。バルドリック先生には私から伝えとく。神の食べ物で天狼が死んだ理由、あの人なら調べられるかもしれない」
◇
カタリナが立ち上がった。
「じゃ、私は行く」
「お帰りですか」
「帰れない。馬の迎えが来ないと動かせないから」
高速馬車の改良種は、一度本気で走らせると三ヶ月は使い物にならなくなる。王立の紋章が入った車体も、そのままにはしておけない。専用の迎えが要る。
「待たないんですか」
「明後日まで何もしないで待つの、無理。谷を下ったとこに温泉あるって聞いたんだけど。寄ってっていい?」
「……任務中では」
「足がないんだからしょうがないでしょ。報告は鳥便で出す」
◇
カタリナが門の前で振り返った。
「マーカス」
「はい」
「あんたの報告書、毎回読んでるよ。あのヒーラーの件」
「……そうですか」
「お茶くらい奢ってあげなよ。あんた何回助けられてんの」
マーカスは、何も言えなかった。
カタリナが手を振った。革のコートの裾が風に巻き上がる。自分で起こした風だ。
一歩踏み出すごとに、普通の人間の三歩分は進んでいる。あっという間に小さくなっていく。
谷の方に向かっている。
◇
仮設事務所に戻った。
一人になると、静かだった。さっきまで誰かが喋り続けていた部屋が、急に広くなった気がする。
報告書に向かう。
『ヴェグシャイト天狼襲撃事件 調査報告書』
物証はない。証言だけだ。
書き始める。いつもの書式。発生日時、被害状況、討伐方法、事後処理。
——信仰者は言った。「これはフェンリルの怒りだ」と。「摂理だ」と。
報告書には『摂理』とは書けない。書けるのは事実だけだ。
サンドベアーの北上。リザードマンの縄張りの喪失。天狼の餌場壊滅。押し出し。
神の怒りではなかった。神の意志でもなかった。ただの——押し出しだ。
フェンリルは神格を手放した。子狼になって、山に帰った。
神の食べ物で、神の眷属が死んだ。
神なんて、最初からどこにもいなかった。
マーカスはペンを置いた。
新しい羊皮紙を取り出す。
『山岳地帯における獣害の連鎖的発生に関する所見』
今まで書いたことのない種類の報告書だった。個別の事件ではなく、この地域で何が起きているのか。来年、同じことが繰り返されないために。
サンドベアーからフェンリルまで。カタリナが語った連鎖を、記録に残す。
◇
薄い茶がまだ残っていた。
飲んだ。
「……やっぱり薄い」
窓の外を見た。
風車がまだ回っている。カタリナが去った後も。風車が回る限り、風の壁は持つ。
神はいなかった。
だが——グランドマスターはいた。
雪が降り始めていた。風の壁の外側で。
※この回の公開日は2026/2/14のバレンタインデーです。
「キュンキュン♪本命チョコの食べすぎ注意!」完結です!
バレンタインシーズンのチョコレート無双回、いかがでしたか?
リリアさんは「100頭の狼の群れ」を倒しても
レベルアップなんて全くしないんですけど
ミラの方は少しずつ、世界が広がり成長してきてしまいました。
ここまでついてくる予定無かったんですけど
特に反応がないので読者の皆様に「はよ置いていけや!」とか思われてないか心配です。
さて。次の章は「シュワシュワ♨️お肌つるつるピーリング体験!」
温泉回です!
3章が常夏ビーチで「おじさん3人が出てきて、水着になったのマーカス」だったのできっと「最後にマーカスが風呂入るだけ」と思われてそうですね。
どうなるのかお楽しみに!




