銅貨のつかいみち
五日目。
朝日が差している。四日ぶりの青空だった。
備蓄庫の扉を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。篭もった煙と汗の匂いが、ようやく薄れていく。
光が床に差した。
散らばった銀紙が光っている。昨夜、天狼が食い荒らした治療食の包み。踏まれて、破れて、床のあちこちに散っている。
朝日を受けて、きらきらと光った。
一枚、また一枚、光の粒になって消えていく。ラストレスキューの残り香が、朝の空気に溶けるように。
誰も気づいていなかった。リリアだけが、それを見ていた。
◇
冒険者たちが広場に出ていた。
天狼の亡骸が、雪の上に並んでいる。灰色の毛並みに朝日が当たって、銀色に光っている。
コンラートがしゃがんで、腰の短刀を抜いた。
毛皮を、剥ぎ始めた。
手慣れた手つきだった。腹の下から刃を入れて、皮と肉の間を滑らせていく。
ハインツとユルゲンも同じように作業している。他の冒険者たちも。誰も言葉を交わさない。黙々と、手を動かしている。
リリアは広場の端から見ていた。
残酷、とは思わなかった。
天狼の毛皮は上等だ。村の復興にも、冒険者の報酬にもなる。命を奪ったなら、使い切る。
◇
広場の隅に、信者の男が立っていた。
壁にもたれて、冒険者たちを見ている。
昨日まで「神の眷属」と呼んでいた狼たちの毛皮が、一枚ずつ剥がされていく。
男は何も言わない。視線だけが、剥がされた毛皮の上を這っている。
◇
イルマがギルドから出てきた。
「リリアさん。ちょっと」
カウンターの前で、イルマが地図を広げた。
「ルッツくんのこと。ご両親と話したの」
「はい」
「このまま冬を越すのは厳しい。心臓に負担がかかりすぎる」
それは分かっている。あの治療食で持ち直したけれど、根本は変わっていない。寒さが続けば、また同じことが起きる。
「北西の谷沿いに、温泉地があるの。ブレンハイムっていう小さな町」
イルマの指が地図をなぞった。ヴェグシャイトから谷を下って三日ほどの場所。
「昔から湯治客が来る場所でね。心臓が弱い人や、古傷が痛む人が長逗留するの」
「ルッツくんを連れていけば——」
「温泉で体を温めて、ゆっくり療養すれば、冬を越せるかもしれない」
「ルッツくんのご両親は」
「話はもうしてある。お父さんがここで荷の仕分けをやってたの。畑があるわけじゃないし、仕分けの仕事ならブレンハイムにもある。向こうのギルドに紹介状を書いたわ」
イルマがリリアを見た。
「ルッツのお母さんが、あなたにも一緒に来てほしいって」
「……私に?」
「道中、何かあったときに。あの子の心臓を診られるのは、あなただけだから」
リリアは地図を見た。北西。谷沿い。温泉地。
「——行きます」
◇
ニコが厩舎から出てきた。
「聞いたぞ。ブレンハイムに行くんだって?」
「はい。ルッツくんの家族と一緒に」
「ブレンハイムか。知り合いがいる。宿場の親父に話をつけとく」
ニコがグレイの首を叩いた。
「荷車で送る。ルッツの坊主は歩かせられねえだろ」
「……いいんですか」
「どうせ谷沿いに荷を届けに行く。ついでだ」
ついでではないことは、分かっていた。
◇
昼過ぎ。
ミラが通りの向こうから走ってきた。
「リリア」
息を切らしている。頬が赤い。
「なに?」
ミラが両手を差し出した。
手のひらの上に、小さなナイフが乗っている。
木の柄。短い刃。刃渡りは指三本分ほど。薬草を切るための小刀だ。
「……買ったの?」
「うん」
あの日、薬屋の棚の隅に並んでいたナイフ。欲しそうに見ていたのに「今はお金ないし」と諦めた、あれ。
「銅貨、全部使った」
ゲルトからもらった二枚。あとは全部、自分で稼いだ分。荷運び、水汲み、配給の手伝い。少しずつ、少しずつ貯めて、全部使った。
「——それで足りたの?」
「ちょっとだけ足りなかった。でもおばさんが、まけてくれた」
ミラがナイフを握り直した。
「それと——」
ミラが懐からいくつか取り出した。革のケース。小さな砥石。油の小瓶。布。それから——革の手袋。子供の手に合わせた、小さなやつ。
「全部おばさんが。研がないと刃が丸くなる、丸い刃は滑って手を切るから、ちゃんと手入れしなさいって」
手袋をはめてみせた。指先が少し余っている。
「手袋は研ぐ時用。刃を触るから」
おばさんの口調を真似しているのだろう。声がちょっと低い。
ミラの目が光っている。
自分のお金で買った、自分のもの。
「……大事にしてね」
「うん」
ミラがナイフを革のケースに戻して、腰の紐に通した。油瓶と砥石と布と手袋は、荷物の布袋にしまった。
少しだけ大人びて見えた。
リリアは自分の腰に目を落とした。
メイス。カミラから預かった、何代ものヒーラーの手を渡ってきた武器。崖の下に怪我人を迎えに行った日から、ずっと腰に差していた。
使わずに済んだ。
腰紐から抜いて、布に包んだ。旅の荷物の底にしまう。銅のインゴットの隣。
ずしりと重い。この重さが荷物の底にある方が、腰にあるよりずっといい。
◇
夕方。
狼がいなくなったことで、風車小屋の倉庫を取り戻せた。屋根裏と地下室にわずかに残っていた穀物と保存食をかき集めて、村に配った。
足りない。全然足りない。でも、昨夜の魔導通信でカタリナが引き返してくれた。天狼は退治した、急がなくていい——その代わり、物資を頼むと。アダマ村で食糧を積んで、明日には着くはずだ。あと一日分あればいい。
イルマがリリアの前に布袋を置いた。
「旅の分。三日ぶん」
「……いいんですか」
「あなたたちのおかげで村が助かったの。これくらい当然でしょ」
乾パンと塩漬け肉。干した果物。小さな瓶に入った蜂蜜。
「蜂蜜は、ルッツくんに。甘いものは体力がつくから」
ゲルトがグレイとモリーの綱を確認している。ニコが弓の弦を張り直している。
「明朝、出る。夜のうちに準備を終わらせておけ」
コンラートが声をかけた。
「グランドマスターが明日には着く。出るなら朝だ」
リリアは頷いた。
グランドマスターに会えば、色々と聞かれるだろう。あの治療食のことも。ラストレスキューのことも。
静かに去る方がいい。
◇
翌朝。六日目。
荷車が門の前に止まっている。
グレイとモリーが白い息を吐いている。ゲルトが綱を引いて位置を直した。
ルッツ一家が荷台に乗り込んだ。毛布と藁を敷いた上に、ルッツが横になっている。父親が荷台の端に座って、風よけになるように体を寄せている。
「……あったかい」
「うん。もうすぐ、もっとあったかい場所に行くからね」
母親がルッツの頭を撫でた。
リリアは荷台の端に座った。救急鞄を膝に置く。ミラが隣によじ登ってきた。
「——出すぞ」
ニコの声。ゲルトが綱を引いた。グレイが歩き出す。モリーが続く。荷車が軋んで、石畳の上を動き始めた。
村の門をくぐった。
イルマが門の前に立っている。手を振っている。
「元気でね!」
コンラートが腕を組んで立っている。頷いただけ。それで十分だった。
ハインツが手を上げた。ユルゲンも。
ミラが荷車の後ろから村を見ている。手を振り返している。
広場の端に——信者の男が立っていた。
手は振らない。でも、見ていた。
リリアと、一瞬だけ目が合った。
男が小さく頭を下げる。ほんの少しだけ。
リリアも頷き返した。
——それで、十分だった。
◇
荷車が街道に出た。
雪の道を、グレイとモリーの蹄が踏んでいく。かぽ、かぽ、と乾いた音が響く。
村が見えなくなった。
街道の両側に、雪をかぶった林が続いている。風はない。鳥の声もない。蹄の音だけが響く。
しばらく走った頃、ミラが荷台の端に手をついて身を乗り出した。
街道の脇を見ている。
「……どうしたの?」
ミラは答えなかった。
荷物から干し肉を取り出した。腰のケースからナイフを抜いて、小さく切り分ける。
「ゲルトさん、ちょっと止めて」
荷車が止まった。ミラが荷台を降りて、道の端に干し肉を置いた。
戻ってきて、荷台によじ登る。
「……出していいよ」
ゲルトが綱を引いた。荷車が動き出す。
リリアは街道の脇を見た。茂みがあるだけで、何も見えない。
しばらく走った。
ミラが振り返った。
リリアもつられて振り返る。
——なくなっている。
ミラが、ふっと笑った。
「……ふわふわだったんだよ」
小さな声だった。
「……ここの山の子だから。連れていけないけど」
ミラの手が、もう片方の指先をそっと包んでいる。あの子狼の耳に触れた、その指を。
「……元気でね」
小さく呟いて、前を向いた。
◇
ルッツが毛布の中から顔を出した。
「……空が、青い」
「うん。青いね」
母親が笑った。四日ぶりの笑顔だった。
ミラが隣でナイフのケースに手を当てている。革の感触を確かめるように。
リリアは谷の方を見た。
雲がない。風もない。冬の朝日が街道を照らしている。
温泉の町は、北西に三日。谷沿いの道を下る。
リリアさんvsフェンリルの戦いはこれで完結です。
…直接はたたかってなかったですね。
※この回の公開日は2026/2/13です
バレンタインにあわせてチョコを使った章でしたが
本当にバレンタインに合わせてチョコを出現させると
もう3話くらい引っ張るようだったのと
前章がミラ+ゲストキャラの掘り下げで話数が多くなりすぎてしまったので
ちょっと早めに幕引きです。
ヴェグシャイト編、ラストにマーカスへ回だけもう一話だけ続きます。




