神の禁忌
真夜中。
体当たりが——止んだ。
備蓄庫の中が、しんと静まる。
コンラートが扉の隙間から外を覗いた。
「……いない」
暖炉の火がちりちりと鳴っている。村人たちは壁際で身を寄せ合っている。子供たちは泣き疲れて眠っている。
誰も声を出さない。体当たりの衝撃より、この静けさの方がおかしい。
◇
屋根の上を、何かが歩いている。
重い。石造りの屋根がきしむほどの重さ。一歩、また一歩。
眠っていた子供が目を覚ました。母親が口を塞いでいる。
コンラートが天井を見上げた。
「屋根も石だ。上からは入れない。——動くな」
低い唸り声が、石の天井を通して響いてきた。
屋根の真ん中で——止まった。
そのとき、床から音がした。
こつ、こつ、こつ。
かすかな音。石と石がぶつかるような、硬い音。
リリアは足元を見た。
石畳の隙間から、砂が落ちている。
こつ。こつ。——がり。がり。がりがりがり。
音が大きくなった。爪で石を引っ掻く音。掘っている。
下から何かが掘っている。
「——床だ!」
コンラートが叫んだ。
「上は囮だ! 下から来る!」
フェンリルが扉を叩き、屋根に登り、注意を引きつけている間に——天狼たちが地面を掘り進めていた。
石畳の一枚が、ずれた。
隙間から泥まみれの灰色の鼻先が覗いた。
天狼の目が、暗闇の中で光った。
◇
石畳が持ち上がった。一枚、また一枚。穴が広がっていく。
狼が一頭、穴から飛び出した。
悲鳴が上がった。村人たちが壁に押しつけられるように後退する。子供の泣き声。赤ん坊の叫び声。
コンラートの剣が閃いた。一頭目が倒れる。血が石畳に散った。
だが穴からは次が来る。二頭目。三頭目。
「塞げ! 穴を塞げ!」
冒険者たちが飛びかかった。だが穴は広がり続けている。天狼たちが爪で石を剥がしながら次々と湧き出してくる。
四頭目がコンラートの横を抜けた。備蓄庫の奥に向かって走る。
——棚だ。
甘い匂い。銀紙に包まれた塊。
天狼が棚に飛びついた。銀紙を噛み破る音が聞こえた。
「——食糧が!」
イルマが叫んだ。
リリアが走った。
遅かった。
五頭目、六頭目が穴から這い出てくる。棚に殺到する。銀紙を引き裂いて、中身を貪り食っている。
茶色い欠片が床に散らばった。踏みつけられて、砕けて、狼たちの口に消えていく。
銀紙ごと咥えて、穴に戻っていく狼もいる。外の仲間に運んでいる。
甘い匂いが備蓄庫に充満する。
リリアは棚の前で立ち尽くした。
——神授の糧が、なくなっていく。
ルッツのために出したもの。全員で分け合ったもの。
棚に残しておいた分が——食い尽くされていく。
◇
屋根の上で、フェンリルが吠えた。
石の天井が震えた。暖炉の灰が舞い上がる。
勝利の雄叫び。
穴から最後の一頭が這い出てくる。備蓄庫の中が狼で埋まった。
コンラートが壁際で剣を構えている。冒険者たちが村人を背に庇っている。
信者の男が、壁に張りつくように立っていた。目が濡れている。唇が動いた。
「……神の……眷属が……」
声が震えている。恐怖ではない。
「勝った……のだ……」
笑っている。
涙を流しながら、笑っている。
◇
その時。
棚の前で銀紙を舐めていた狼が——動きを止めた。
首を振る。よろめく。
もう一頭も、同じように。
「……?」
コンラートの目が細くなった。
◇
狼が泡を吹いた。
白い泡が口から溢れ、あごを伝って床に落ちる。
痙攣が始まった。全身が引きつるように震えている。前脚が折れた。崩れるように倒れた。
隣の狼も。
その隣も。
テオブロミンは、代謝がきわめて遅い犬科の動物には——少量で猛毒となる。
ルッツの心臓を救った過剰回復。あの力が、神授の糧の効果を大幅に増幅していた。
人間の体には——薬効として。
犬科の体には——毒として。
備蓄庫の中で、あの茶色い塊を食った天狼たちが——次々と倒れていく。
泡を吹いて、痙攣して、動かなくなる。
穴から入ってきた順に。食べた量の多い順に。
神の食べ物は——神の眷属には、猛毒であった。
◇
誰も何も言わなかった。
備蓄庫の中が静かになった。
暖炉の火だけが、ちりちりと鳴っている。
◇
屋根の上から——声がした。
低く、長い声。
さっきまでの勝利の雄叫びとは違う。
仲間を呼ぶ声だった。
返事がない。
もう一度。
返事がない。
屋根の上の足音が、ゆっくりと遠ざかっていった。
◇
信者の男が、壁に背をつけたまま動かない。床を見つめている。
目の前に天狼の亡骸が転がっている。泡を吹いて、体を硬直させて、動かなくなった眷属。口の端に、茶色い欠片がこびりついている。
男の口が開いたまま、言葉が出ないようだった。
◇
夜明け前。
コンラートが備蓄庫の扉を開けた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
外は——静かだった。
村の広場に、天狼の亡骸が転がっていた。
一頭、二頭ではない。
広場の端にも。門の近くにも。街道の上にも。雪の上に灰色の体が横たわっている。
口の端に、茶色いものがこびりついている。
棚から溢れた欠片を食った狼たち。備蓄庫の外に持ち出して食い散らかした狼たち。
次々と。次々と。
百を超える天狼たちが——戦わずして地に伏していた。
◇
亡骸の間に——まだ息がある狼がいた。
横たわったまま、浅い呼吸を繰り返している。口の端に泡がこびりついているが、動いている。
群れの中で序列が低く、餌の取り合いに負けた個体だろう。食べた量が少なかった。
若い冒険者が剣を抜いた。
「止めを——」
「逃がせ」
声がした。振り返ると、信者の男が門の前に立っていた。
「殺し尽くしたら、山の均衡が崩れる」
初めて聞く声だった。「摂理だ」「罰だ」と繰り返していた男の口から、初めてまともな言葉が出ている。
「こいつらはこの村の食い物を狙うとどうなるか、体で覚えた。生きて山に帰れば、二度と来ない」
若い冒険者がコンラートを見た。
コンラートは亡骸の間に立ったまま、しばらく黙っていた。
「……逃がせ」
短く言った。
生き残りの数頭がよろよろと立ち上がる。足がもつれている。互いに体を寄せ合いながら、広場を横切り、門の外へ向かっていく。
雪の上に、よろめく足跡が残った。
◇
村の門の向こう。
銀色の毛並みが、朝日に光っていた。
フェンリルが——立っている。
リリアは息を呑んだ。
門の外に、馬よりも大きな銀色の獣が佇んでいる。こちらを見ている。赤い目が、朝の光の中で光っている。
群れの主。百の天狼を率いていた王。
その群れは、もうない。
その口元に——茶色い欠片がこびりついていた。
フェンリルも食べたのだ。あの甘い塊を。眷属と同じものを、何枚も。
一口で天狼が倒れたものを——何枚も。
フェンリルの体から、何かが抜けていく。
光だった。目に見えないほど淡い、けれど確かにそこにあった輝き。銀色の毛並みの奥で灯っていたもの。
神格——という言葉が浮かんだ。
それが、消えていく。
命の代わりに。毒で死ぬ代わりに。神であることを手放して、ただの獣として生き延びようとしている。
体が縮んでいく。馬ほどあった巨躯が、力を手放すように小さくなっていく。銀色の毛並みはそのまま。赤い目もそのまま。けれど、もうさっきまでの威圧は感じない。
子狼ほどの大きさになった。
雪の上に座り込んで、空に向かって鳴いた。
小さな、高い声。
遠吠えには、ならない。
◇
誰も近づかなかった。
小さくなったフェンリルは、雪の上に座ったまま動かない。
リリアは振り返った。
信者の男が、まだそこにいた。
動かない。手も上げない。声も出さない。
フェンリルの方を見ている。子狼になった神の遣いを見ている。
その目には何もなかった。怒りも、悲しみも、歓喜も。
空っぽだった。
◇
ミラが、門の外に出てきた。
小さなフェンリルを見つけた。
「……ちっちゃい」
しゃがんで、手を伸ばした。
子狼が身を引いた。体を低くして、尻尾を腹の下に巻き込んでいる。赤い目がミラを見上げている。
威嚇ではない。あの巨躯で備蓄庫を揺らしていた獣の目ではない。
震えている。
ミラは動かなかった。手を伸ばしたまま、じっと待っている。
怖くないのだろうか。さっきまで村を襲っていた天狼の親玉だ。小さくなったとはいえ、牙も爪もある。
でもミラの手は震えていない。伸ばした指先が、雪の冷気の中でじっと止まっている。
子狼の耳が伏せられている。鼻先が小さく動いた。ミラの指の匂いを嗅いでいる。
一度離れて、また近づく。もう一度嗅ぐ。
ミラの指先に、冷たい鼻が触れた。
子狼の体が、ほんの少しだけ緩んだ。尻尾がまだ巻き込まれたまま、でも震えが止まっている。
「……ふわふわ」
小さな声。指が、耳の後ろに触れた。そっと掻く。
子狼の首が——ほんの少し、ミラの指に傾いた。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間、子狼が弾かれたように身をひるがえした。雪を蹴って、茂みの奥に駆けていく。
銀色の影が林の中に消えた。
小さな足跡だけが、雪の上に残っている。
ミラが手を下ろした。
膝の上で、指を握っている。
「……行っちゃった」
指先に、まだ温かさが残っている。
リリアは何も言わなかった。
※公開日は2026/2/12です
ちょっと早いですがハッピーバレンタイン!
リリアさんからのバレンタインチョコ、いかがだったでしょうか?
「犬にチョコ食べさせたらダメ」というネタだけで
1章作るの無理かと思っていたのですが
チョコの歴史を調べたら、なかなか相性が良い背景があって驚きました。
強力な増援「風のグランドマスター・カタリナさん」
ギリギリの所で駆けつけそうで、来ませんでしたね…




