神の食べ物(テオブロマ)
【緊急のお詫び】
予約投稿の不備によりep.32とep.34の間に
「ep.33 Cu(原子番号29)」が抜けておりました。
2/8に正しい位置へ挿入しましたので
未読の方はお手数ですが一度お戻りください!
※数日経ちましたら
この案内は削除いたします。
四日目。
朝の配給がなかった。
イルマが備蓄庫の奥を確認して、戻ってきた。首を振る。
パンが尽きていた。残っているのは塩だけ。
◇
ルッツが動かない。
暖炉のそばに横たわっている。母親が背中をさすっている。老人が毛布をかけ直している。
リリアは駆け寄った。手をかざす。
——鼓動が、ほとんどない。
三日間、寒さが心臓を削り続けた。体温を保つために無理を重ねて、もう動く力が残っていない。
回復魔法を流す。光がルッツの胸に沈んでいく。
鼓動が戻る。——弱い。すぐに落ちていく。
もう一度。
もう一度。
光を注いでも、砂に水を撒くように消えていく。心臓の形が変わらないかぎり、魔法は体の外から押しているだけだ。手を離せば、また止まる。
「——リリアさん」
母親の声が震えている。
「大丈夫ですか。ルッツは……」
答えられなかった。
手をかざし続けた。ルッツの心臓が止まらないように。
腕がだるい。指先が冷たい。
——治せない。
知っている。最初から分かっている。
形は変えられない。生まれつき壁が薄い心臓に、いくら魔力を注いでも、穴の空いた器に水を注いでいるだけだ。
でも、手は離せない。
◇
ルッツの唇から色が消えた。指先が紫色になっている。
呼吸が浅い。胸がほとんど動いていない。
「ルッツ」
母親が名前を呼ぶ。返事はない。
「ルッツ——」
リリアの手が震える。
光が薄くなっている。魔力が底をつきかけている。
——このまま離したら、この子は死ぬ。
心臓を外から押しても、足りない。
内側から動かす何かがなければ。
この子の体を温めて、心臓を支えて、中から力を与えるものが——
◇
体の奥が、熱くなった。
知っている。この感覚。
どこかの世界の、誰かの記憶が流れ込んでくる。
◇
テオブロミン——
ギリシャ語で「神の食べ物」を意味するテオブロマ・カカオ。その主成分である。
心臓を強く打たせ、血管を広げ、気管支を開く。
かつては心臓病の薬として、喘息の治療薬として処方された。
このテオブロミンを豊富に含むのが——チョコレートである。
1847年、イギリスのフライ社がカカオバターを加え、「食べるチョコレート」を生み出した。
固形になったことで、携行が可能になった。
溶けにくく、軽く、高カロリー。
疲労を忘れさせ、意識を覚醒させ、極限状態でも人を動かし続ける。
兵士の携行食。探検家の命綱。登山家の切り札。
フライ社の創業者ジョセフ・フライは、医師であり薬剤師であった。
カカオの薬効を信じた男。
その息子たちが、固形チョコレートを発明した。
医師の息子たちによる発明品、すなわち——
ヒーラーが使用可能な『治療食』である!!
◇
最終救護——
光がリリアの手の中に集まる。
形を成していく。
四角い塊。銀色の紙に包まれている。手のひらに収まる大きさで、ずっしりと重い。
甘い匂いがした。
知らない匂い。でも、どこかの世界のヒーラーが知っている。
——これは、人を救うための食べ物だ。
神授の糧。
◇
銀紙を剥いた。
茶色い、つややかな塊。割ると、ぱきんと小気味よい音がする。
甘くて、苦くて、温かい匂いが広がった。
備蓄庫の中が静まる。全員がこちらを見ている。
◇
「ルッツくん」
ひとかけらを、唇に当てた。
口が開かない。
指で唇をなぞる。小さな隙間ができた。茶色い欠片を、そっと滑り込ませる。
「噛まなくていい。溶けるから」
ルッツの喉が小さく動いた。飲み込んでいる。
回復魔法を重ねた。光がルッツの胸に沈んでいく。
今度は——消えない。
何かが内側から心臓を押している。
鼓動が——戻ってくる。
弱い。まだ弱い。でも、さっきまでとは違う。外から押されているのではなく、中から動いている。
薄い壁の心臓が、それでも自分の力で血を送り出そうとしている。過剰回復で増幅された薬効が、弱った心臓を内側から押し上げている。
もうひとかけら。唇に当てると、今度はルッツの口が自分から開いた。
舌の上で溶けている。喉が動く。
鼓動が強くなる。強すぎるくらいに。
ルッツの頬に色が戻っていく。指先の紫が薄くなる。呼吸が深くなって、胸が上下し始めた。
「……あったかい」
ルッツの目が、うっすらと開いた。
「おなかの中が、あったかい」
母親が声を詰まらせた。ルッツの手を握って、額をくっつけている。肩が震えている。
リリアの目が滲んだ。
——生きてる。
指先がまだ震えている。さっきまでこの手で心臓を押し続けていた。離したら死ぬと思っていた。それが今、この子は自分の力で息をしている。
◇
リリアは手を下ろした。
治ったのではない。心臓の形は変わっていない。
でも今、この子の心臓はいつもより強く打っている。増幅された力が、血を体の隅々にまで押し出している。
一時的なものだ。効果が切れれば、心臓はまた元に戻る。
でも——峠は越えた。この子は、生きている。
◇
「……甘い」
ルッツが母親にもたれて座っている。目が開いている。
「おいしい?」
母親が聞いた。
「うん。……なにこれ」
「わからない。でも、あなたのために来たものだよ」
◇
残りを数えた。
銀紙に包まれた塊がいくつもある。ラストレスキューは、ルッツ一人分より多く生み出していた。
体を温めて、心臓を支える神授の糧。
——ここにいる全員が、今それを必要としている。
リリアは塊を手に取った。銀紙を剥いて、割る。手がまだ少し震えている。
ひとかけらを銀紙に包み直した。もうひとつ。もうひとつ。
「ニコさん。ミラとゲルトさんに届けてもらえますか。三つ目はニコさんの分」
ニコが受け取って、匂いを嗅いだ。
「……甘いな。何だこれ」
「神の食べ物、だそうです」
ニコが厩舎の方へ歩いていった。
残りを一人ずつ、手渡した。
老人の手に。赤ん坊を抱いた母親の手に。子供たちの手に。
冒険者たちにも。コンラートにも。イルマにも。
甘い匂いが備蓄庫に広がっていく。
「……なんだ、これ」
コンラートが口に含んで、動きを止めた。
「体が温まる。腹の底から——」
指先にまで何かが巡っていくのが分かる。コンラートが自分の手を見つめている。かじかんでいた指が、じわりと赤みを取り戻している。
子供が笑った。三日間で初めての笑い声だった。
隣の子も笑い出す。口の周りを茶色くして、指についた欠片を舐めている。
老人が背筋を伸ばした。杖をついていた手が、壁から離れている。
赤ん坊を抱いたまま壁際にうずくまっていた母親が、顔を上げた。頬に血の色が戻っている。
三日間、寒さと空腹で削られ続けていた体に——火が灯った。
リリアは最後のひとかけらを口に含んだ。
舌の上で溶ける。甘くて、苦い。体の芯に、じんわりと熱が広がっていく。
腕のだるさが嘘のように引いていく。さっきまで空っぽだった魔力の底に、何かが戻ってくる。
——ああ、これは。
泣きそうになった。
◇
昼。もう一度、配った。
今度は半分の大きさに割って、厩舎や見張りの詰所にも回した。備蓄庫の外で夜を明かした冒険者たちや、朝まで配られていなかった人たちに。
二度目になると、みんな大事そうに舐めるように食べる。子供たちも、もう噛みつかない。少しずつ、少しずつ、口の中で溶かしている。
◇
備蓄庫の隅に、信者の男がいた。
いつの間にか戻ってきていた。三日目には姿を見せなかった男が、四日目の朝にいる。
壁にもたれて、膝を抱えている。頬がこけて、首筋に筋が浮いている。
リリアは茶色いかけらを手に、近づいた。
男が顔を上げた。
「……いらない」
「食べてください」
「いらないと言っている」
声が枯れている。
リリアは男の手を取って、掌にかけらを置いた。
「——これは、神の食べ物です」
男の手が止まった。
「……なに」
「神の食べ物。そういう名前だそうです」
嘘ではない。テオブロマ——神の食べ物。流れ込んできた記憶の中で、そう呼ばれていた。
男は掌の茶色い欠片を見つめている。
何も言わずに、口に入れた。
◇
残りは棚に並べた。銀紙に包まれた塊。二度の配給を終えて、まだこれだけ残っている。
イルマが布をかけた。
「大事に使いましょう」
◇
夕方。
カタリナは来なかった。
遠吠えが聞こえる。昨日より近い。
コンラートが扉の前に座っている。剣を膝の上に置いて、壁にもたれている。
「……今夜が山だ」
ルッツは母親の膝で眠っている。呼吸は穏やかで、頬に色がある。
備蓄庫の棚に、銀紙の塊が並んでいる。
甘い匂いが、まだかすかに残っている。
遠吠えが聞こえた。昨日より近い。
——どん。
備蓄庫が揺れた。壁も、天井も、床も。暖炉の火が散った。
子供が泣き出した。村人たちが身を竦める。
——どん。どん。
石造りの壁に亀裂が走る。蝶番から埃が落ちた。馬ほどもある巨躯が、扉に体をぶつけている。
コンラートが立ち上がった。剣を構える。
——どん。
扉の上端に亀裂が走った。
とうとうこの章も『最終救護』発動!
バレンタインが近いので「どこかの世界のヒーラー」アイテムはチョコレートです!
そしてあっという間に大ピンチ、敵ボスとの最終決戦です!!




