灰色の空
一日目。
配給の列ができていた。備蓄庫の入り口に、イルマが立っている。パンと干し肉を一人ずつ手渡していく。
量は少ない。パンは半分に切ってあった。干し肉は親指ほどの大きさ。
誰も文句を言わなかった。
◇
リリアは備蓄庫の隅で、冒険者たちの傷を診ていた。
昨夜の防衛線で負った傷。回復魔法で塞いだが、打撲や筋の痛みは残っている。
「肩、まだ痛みますか」
「いや、だいぶ楽だ。……ありがとよ」
若い冒険者が肩を回した。
次の人が来た。ユルゲンだった。火を撒いた時に手首を捻ったらしい。指が腫れている。
「動かせますか」
「……ちょっと」
光をかけた。腫れが引いていく。
「包帯はそのままで。明日もう一度診ます」
「悪いな」
ユルゲンは包帯を巻き直しながら、軽く頭を下げた。
◇
昼。
備蓄庫の外に出た。冷たい空気が肺に刺さる。
広場の向こうに、男が一人立っていた。
昨夜の配給で、列の最後尾にいた男だ。何も受け取らずに去っていった、あの信者。
備蓄庫の壁に向かって、話している。
「これは罰だ」
声が低い。誰に向けているのかわからない。
「人間が神の山を荒らしたから、こうなったのだ」
村人が一人、足を速めて通り過ぎていく。もう一人も。
「フェンリルの怒りは——」
「やめてくれよ」
老人の声だった。杖をついた白髪の男が、顔をしかめている。
「腹が減ってるんだ。そういう話は今じゃなくていい」
信者の男が口を閉じた。
両手が赤い。指に藁くずがついている。寒さで鼻の頭も赤い。——どこかで、外の作業をしてきたのだろう。
備蓄庫にも自宅にも入らず、男はそのまま広場の端に立って、灰色の空を見上げていた。
◇
厩舎に行った。
ミラがいた。
グレイとモリーの間に、小さなテントが張ってある。ギルドの貸し出し品だ。入り口には巻布団が敷いてあった。冬山の野営用だとニコが言っていた。
「寒くない?」
「うん。グレイが風除けになってくれる」
ミラが灰色のロバの首を撫でた。グレイが鼻を鳴らす。
ふと、水桶が目に入った。
厚い木のふたが載っている。その上に、岩塩の塊が麻紐で吊るしてあった。ロバが舐めた跡がある。塩を伝って落ちた雫が、ふたの上に薄い輪の染みを作っていた。
「これ、誰が教えてくれたの」
「ニコさん。塩はイルマさんがくれた」
ミラが桶のふたをずらした。中の水に薄氷は張っていない。
「水面が冷気に触れなければ、凍りにくいんだって」
ミラの声が、少し誇らしげだった。
リリアはテントの中を覗いた。巻布団の上に、藁が敷いてある。枕元に布の袋が二つ。
一つはグレタさんにもらった薬草袋。父親の匂いがする、あの袋。
もう一つは呪いの薬草袋。オオカミよけのまじないが施してあるものだ。
「虫が来ないの、これのおかげだと思う」
ミラが袋を持ち上げた。
「ロバも落ち着いてる。匂いが好きみたい」
モリーがミラの手に鼻をくっつけた。ミラの指が、モリーの耳の後ろを掻いている。慣れた手つきだった。
テントの脇に、木箱があった。中にもみがらが詰まっていて、フェルトで包んだ水筒が二本、埋まるように収まっている。
「……これは」
「水が凍らないように。もみがらが温かさを逃がさないの」
ミラがフェルトの端を直した。
「どこで覚えたの、こういうの」
「ゲルトさんに聞いた。冬の荷運びで使うんだって」
ミラはロバの世話だけを任されたはずだった。それがいつの間にか、水の管理まで自分で工夫している。大人に聞いて、教わったことを、自分のやり方に変えている。
——ずっとそうだった。この子は。誰かに教わると、自分のものにする。
壁に目が止まった。
厩舎の板壁。隙間がある——あった、のだと思う。今は藁が詰めてあった。外側から押し込んだように、端がこちらに飛び出している。古い毛布の切れ端も挟まっている。風が入ってこない。
「ミラ、これもゲルトさん?」
「ん?」
ミラが壁を見た。
「……知らない。前からこうだったんじゃない?」
違う。昨日はなかった。昨日ここに来た時、壁の隙間から風が吹き込んでいた。
でも、それ以上は聞かなかった。
◇
「——ミラ」
「うん」
「今夜、一緒に寝ようか」
ミラが首を振った。
「リリアは備蓄庫で寝て」
「でも」
「暖炉があるでしょ。ヒーラーが風邪ひいたら、誰が治すの」
真剣な目だった。
子供に諭されている。そう思って、少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
「……分かった」
ミラが頷いた。それからまた、モリーの耳を掻き始めた。
◇
厩舎を出る前に、振り返った。
ミラはロバの足元にしゃがんで、蹄の裏を覗き込んでいた。石が挟まっていないか確かめているのだ。それもニコに教わったのだろうか。
——手を、握って寝ていたのに。
この子は、いつの間にか、一人で夜を過ごせるようになっていた。
嬉しい、のだと思う。
胸の奥がきゅっとなるのは、きっと、嬉しいからだ。
◇
厩舎を出て、数歩で足を止めた。
振り返る。誰もいない。
テントに戻って、もみがら箱の水筒に触れた。まだ温かい。——でも、夜には冷え切る。
手のひらに小さな火を灯す。
火の魔法。ほんの少し。
水筒を両手で包む。じんわりと、熱が移っていく。
もう一本も同じように。フェルトで包み直して、もみがらに埋める。
ミラの前ではやらない。怒られるから。「魔力の無駄遣いだ」と、あの真剣な目で言われるから。
グレイがこちらを見ている。
「……内緒ね」
グレイが鼻を鳴らした。
◇
備蓄庫に戻って、いつもの隅に座った。膝を抱える。
中は人でいっぱいだ。毛布にくるまった村人たちが壁際に並んでいる。赤ん坊の声。誰かの低い子守歌。
暖炉の火が揺れている。石造りの壁に影が踊る。
暖かい。人がたくさんいて、火があって、壁があって。
ミラの厩は、寒いだろう。
——でも、水筒は温かいはずだ。朝まで、持つといい。
◇
暖炉のそばに、小さな固まりができていた。
ルッツが真ん中にいる。母親が背中を支えている。隣に赤ん坊を抱いた女性が座っていて、反対側には杖をついた老人がいる。外に出て働けない人たちが、暖炉の一番近くに集まって、互いの体温で暖を取っていた。
ルッツの顔色が悪い。唇に色がなくて、目の下が暗い。
配給のパンを半分だけ食べて、残りを母親に返していた。
「食べなさい」
母親の声が小さい。
ルッツが首を振った。
「……お腹いっぱい」
嘘だ。半分しか食べていない。食欲がないのだ。心臓が弱いと、全身に血が回りにくい。消化にも体力を使う。食べたくても食べられない。
リリアは近づいた。
「ルッツくん。ちょっと診させてね」
手をかざした。光が灯る。
心臓の鼓動が手のひらに伝わってくる。
——弱い。昨日より、弱い。
寒さのせいだ。体を温めるために、心臓が無理をしている。でも心臓自体が弱いから、無理をすればするほど消耗する。
回復魔法を流した。鼓動が少しだけ強くなる。ルッツの頬に色が戻る。
「……楽になった」
ルッツが言った。
「暖炉の近くにいてね。冷えないように」
ルッツが小さく頷いた。
——治せない。
楽にするだけだ。楽にしても、時間が経てば戻る。魔法で心臓の形は変えられない。
指先が冷たい。自分の手を見た。
◇
二日目。
朝の配給の時、イルマの手が止まった。
パンが足りない。
数え直している。人数を確認している。それから、自分の分を列の最後に回した。
誰も気づかなかった。リリアだけが見ていた。
◇
コンラートが見張りから戻ってきた。備蓄庫に入るなり、壁にもたれて目を閉じる。
「手、出してください」
言われるまま差し出された手を取った。
切り傷が二つ。一つは昨日のもの。もう一つは——新しい。赤く腫れかけている。
「……いつの」
「さっき。柵のあたりで」
深い傷ではない。けれど放っておけば化膿する。寒さで感覚が鈍って、コンラート自身は気づいていなかったのだろう。
光を流した。傷口が塞がっていく。コンラートは目を閉じたまま、何も言わなかった。
◇
厩舎に寄った。
ミラは水汲みに出ている。テントの中は空だった。
しゃがんで、もみがら箱の水筒に触れる。冷たい。すっかり冷え切っている。
手のひらに火を灯して、一本ずつ温めた。フェルトを巻き直して、もみがらに埋める。
壁の藁は、昨日のまま。風は入ってこない。
◇
三日目。
配給が減った。パンが四分の一になった。干し肉がなくなった。代わりに塩をひとつまみ。
子供が泣いている。母親が抱きしめて、黙らせようとしている。
「もうちょっとだけ我慢しようね」
「……おなかすいた」
「うん。もうちょっとだけ」
信者の男は、今日は来なかった。
◇
「——リリアさん」
振り返ると、イルマが立っていた。
「ちょっと」
備蓄庫の外に出た。冷たい風が頬を叩く。
「ルッツくんのこと、聞いてもいい?」
「はい」
「あの子、持つの?」
リリアは答えを探した。
「……寒いのが、よくないです。心臓に負担がかかります」
「暖炉のそばに」
「はい。できれば、もっと暖かい場所に」
「もっと暖かい場所なんて、ここにはないのよ」
イルマの声が乾いていた。
「……すみません」
「謝らないで。あなたのせいじゃない」
イルマが空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込めている。
「あと一日。明日にはカタリナが来る」
「……はい」
「持ちこたえて」
リリアは頷いた。
◇
備蓄庫の扉を閉め、閂をかけた。暖炉の火が、ちりちりと鳴っている。
ルッツが暖炉のそばで眠っている。老人と母親たちに囲まれて。子供たちも静かだ。
リリアは隅に座って、救急鞄を開いた。包帯の残り。傷薬の瓶。聖水の革袋に手をかざすと、淡い光が水面にぼんやりと灯った。
——あと一日。
目を閉じた。ミラは今、厩舎で一人だ。巻布団にくるまって、ロバの隣で。薬草の匂いに包まれて。
水筒は——さっき温めてきた。朝まで持つかは、わからない。
遠吠えが聞こえた。備蓄庫の中が、しんと静まった。
あと一日。
——もう少し。もう少しだけ。
リリアさんも回復魔法の使いすぎで摩耗
そして、天狼たちの街道封鎖と
web連載に向かないと言われる溜め展開が続いてごめんなさい!!!!
次回はいよいよリリアさんの「治療器具(今回は治療食)」の出番です!




