陸の孤島
翌日。
ハインツが自分の足で立った。
壁に手をつきながら、ゆっくりと。昨日まで折れていた脚に、体重をかけていく。
「……痛みは?」
「ない」
ハインツが脚を見下ろした。
「嘘みたいだ。昨日まで曲がってたのに」
ユルゲンは寝台に腰かけていた。顔色はまだ悪いが、声に力がある。
「腹の傷も、もう痛まない」
リリアは二人の包帯を替えた。指先がまだ重い。崖を降りて、登って、村に戻って、そのまま二人の骨と内臓を治した。あれが昨日。一晩眠って魔力は戻ったが、腕の奥に鈍いだるさが残っている。
二人の傷跡はまだ残っている。完全に消えるには時間がかかる。
「無理はしないでください。骨も内臓も繋がりましたけど、まだ中が落ち着いていないので」
「ああ」
ハインツが壁から手を離した。二歩、三歩。
歩けている。
◇
ギルドに行くと、イルマが立ち上がった。
「ヒーラーさん。ちょっとお願いがあるんだけど」
「はい」
「村の人たちを診てもらえない? 街道が止まってから、薬が手に入らなくて」
受付の裏に、紙が何枚か貼ってある。名前と症状が書いてある。腰が痛い。膝が腫れている。咳が止まらない。熱が下がらない。
「冒険者じゃないから、ギルドの回復師に頼みにくいって人がいるの」
「……分かりました」
リリアはその紙を見た。十人以上いる。
一瞬、脚の奥が軋んだ。崖を登った時の筋肉がまだ文句を言っている。
「報酬は村の持ち出しになっちゃうから、少ないけど」
「大丈夫です」
◇
村を回った。
一軒目。腰を痛めた老人。畑仕事で無理をしたらしい。回復魔法をかけると、声を上げて立ち上がった。
二軒目。膝の腫れた女性。関節に水が溜まっている。治した。
三軒目。咳の止まらない子供。肺に炎症がある。魔法で炎症を抑えて、残りは薬草茶で様子を見る。
四軒目。五軒目。六軒目。
六軒目を出た時、目の奥がちかちかした。しゃがんで立ち上がる時に、一拍遅れる。
◇
どの家も同じことを言った。
「北からの荷が来ないから、薬がなくて」
「前はもっと蓄えがあったんだけどね」
「いつ街道が通るかねえ」
物が足りない。それは薬だけじゃなかった。穀物も、干し肉も、塩も、油も。秋の収穫分はとっくに減り始めている。冬はまだ続く。
◇
七軒目を訪ねた帰り道、ミラが走ってきた。
「リリア」
息が弾んでいる。頬が赤い。
「どうしたの?」
「ギルドの人に頼まれて、伝言持っていった。それから井戸の水汲みも」
「一人で?」
「ううん。村の子たちと」
ミラの後ろに、同じくらいの年頃の子供が二人いた。ミラを見ている。ミラが振り返って手を振ると、二人とも走っていった。
「……お友達?」
「友達っていうか……一緒に手伝っただけ」
でも、ミラの耳が赤い。
リリアは何も言わなかった。
◇
「あの子、いつも座ってるの」
ミラが言った。
通りの端に、日陰がある。石の壁に背をもたれて、膝を抱えている子供がいた。
他の子供たちが走り回っている。声を上げて、追いかけっこをしている。その子だけが動かない。
「走れないの」
「どうして?」
「分かんない。でも、いつもああしてる」
ミラがそっちを見ている。
◇
リリアは近づいた。
「こんにちは」
子供が顔を上げた。男の子。七つか八つくらい。顔色が悪い。唇に色がない。
「……こんにちは」
声が小さい。
「具合はどう?」
「……べつに」
リリアはしゃがんだ。膝が軋む。手を伸ばして、手首に触れる。
脈が速い。弱い。ルッツの手のひらが冷たい。
——自分の指先も冷たいことに、触れてから気づいた。
胸に手をかざした。光が灯る。心臓の鼓動が手のひらに伝わってくる。
——弱い。
心臓の壁が薄い。手のひらに伝わる鼓動が、押し返してこない。血を送り出す力が足りない。
生まれつきだ。
回復魔法の光を注ぐ。心臓の周りを温めるように、ゆっくりと。
鼓動が少しだけ強くなる。顔に血の気が戻ってくる。
「……楽になった」
男の子が言った。でも目が慣れている。この言葉を、何度も言ったことがあるような目だった。
「またすぐ苦しくなる?」
「……うん」
リリアは手を下ろした。
回復魔法で治せるのは傷だ。この子の心臓は、傷ついているのではない。最初から、こういう形なのだ。
「名前、聞いてもいい?」
「……ルッツ」
「ルッツくん。また来るね」
ルッツは何も言わなかった。膝を抱え直して、また石の壁にもたれた。
◇
午後。
ギルドの前が騒がしくなった。
「——戻ってきたぞ!」
「南からだ!」
通りに出ると、南の門の方から人が来る。
ロバが二頭。灰色の大きい方と、耳の長い小さい方。
ミラが走り出した。
「グレイ! モリー!」
ニコが手を振った。いつもの弓が肩にかかっている。
ゲルトがその後ろにいる。グレイの綱を引いている。
だが——荷車がなかった。
◇
「やられた」
ニコが言った。
ギルドの前に人が集まっている。
「南の街道。半日も行かないうちに群れに囲まれた」
ニコの声がいつもと違う。低い。笑っていない。
「荷を切り離して逃げた。ロバと人間だけでやっとだ」
ゲルトは何も言わない。グレイの首を撫でている。荷がないのに、ロバだけは守って帰ってきた。
イルマが受付から出てきた。
「南もなの?」
「ああ。北の群れとは別かもしれねえが、数がいた」
村人たちの顔が変わった。
北が通れない。南も通れない。峠の村は——どこにも繋がらなくなった。
◇
その日の夕方。
ギルドの掲示板から、すべてのクエストが剥がされた。
代わりに一枚だけ、大きな紙が貼られた。
「村外移動禁止。北門・南門ともに封鎖。解除まで待機のこと」
リリアはその紙を見つめていた。文字が一瞬ぶれて、瞬きをした。
ミラが隣にいる。ミラの手の中に、銅貨が四枚ある。ゲルトからの二枚と、今日の手伝いで増えた二枚。
「リリア」
ミラが何か言おうとして、やめた。
◇
村を回っていた時、一人だけ治療を断った家がある。
戸口に立っていた男は痩せていた。頬がこけて、目だけが大きい。
「いらない」
リリアが何か言う前に、扉が閉じた。
隣の家の女性が、声を落として教えてくれた。
「あの人はね……フェンリルの信者なの」
「フェンリル?」
「天狼の長よ。神の遣いだって信じてる人。狼が来たのは人間のせいだ、罰だって」
「……」
「最初はみんな聞いてたのよ。でも毎日毎日同じことばかり言うから、誰も相手にしなくなって」
リリアは閉じた扉を見た。
中から物音がしない。食器の音も、足音も。
「……食べてるんですか、あの人」
隣の女性が首を振った。
◇
宿に戻った。
ミラが窓の桟に座っている。外を見ている。
「……リリア」
「うん」
「あのおじさんの家。水、持っていっていい?」
「……信者の人?」
ミラが頷いた。
「ご飯食べてないなら、水くらいは」
リリアはミラを見た。
エステルのときも、そうだった。みんなが避けている人のそばに、ミラはいつの間にか立っている。
「……いいよ。気をつけてね」
ミラが頷いて、水筒を持って出ていった。
◇
夜。
窓を開けると、冷たい風が入ってきた。
遠吠えが聞こえる。
昨日より、近い。
◇
リリアは救急鞄を開けた。
包帯を数えた。傷薬の残りを確認した。消毒用のお酒——小瓶が一本だけ。
聖水を作り直した。革袋の水に両手をかざして、回復魔法を込める。
光が薄い。いつもなら水面が白く輝くのに、今日はぼんやりとしか光らなかった。集中が続かない。頭の芯がぼうっとしている。
——眠れば治るのだろうか。
昨日も、一昨日も、そう思って眠った。でも体の芯に溜まったものは、一晩では抜けない。
飲み水の水筒にも回復魔法を込めておく。何があるか分からない。
それから包帯を巻き直した。使い古したものを洗って干しておいたのが、乾いている。
一本ずつ、丁寧に巻く。
武器の手入れじゃない。
治療の準備だった。
◇
ミラが戻ってきた。
「どうだった?」
「水筒、戸口に置いてきた。扉は開かなかった」
「……そう」
「でも、中から足音がした。生きてた」
ミラがベッドに座った。
「リリア」
「うん」
「あの子——ルッツくん。治せないの?」
リリアの手が止まった。
「……楽にはできる。でも、治すのは難しい」
「どうして」
「心臓の形が、生まれつき違うの。魔法で傷は治せるけど、形を変えることはできない」
ミラが黙った。
リリアは包帯を巻く手を止めなかった。昼間、ルッツの胸に手をかざした時の感触がまだ残っている。楽にはできる。でも、それだけだ。
遠吠えがまた聞こえた。さっきより長い。
「……近い」
ミラが窓を見た。
リリアも見た。
暗闘の中に、何かが光った気がした。目を凝らしても、もう何も見えない。
風が冷たい。窓を閉めた。
遠吠えは、窓を閉めても聞こえていた。
目を閉じると、こめかみの奥が脈打っている。自分の心臓の音が、やけにはっきり聞こえた。
リリアさんがヒーラーとして普通に活躍しているこの章。
ヒーラーとしては優秀すぎるので、今回は蓄積疲労がおそってきます。
この疲れを吹き飛ばす事はできるのでしょうか。(章の最初の63話冒頭で半分バレバレですが)




