遠吠えの夜
街道は北へ続いている。
木々が増えてきた。道幅が狭くなり、轍の跡も薄い。この先に行く者は少ないのだろう。
コンラートは口を開かない。黙って歩いている。足取りは確かだが、時おり右足を引きずっている。さっきの回復魔法で傷は塞いだはずだが、筋を痛めていたのかもしれない。
「足、まだ痛みますか」
「歩ける」
それきり黙った。
リリアもそれ以上は聞かない。
◇
一時間ほど歩いて、コンラートが足を止める。
「……ここだ」
街道の脇に、大きな岩が二つ並んでいる。人の背丈の倍ほど。その間を抜けると、急な斜面が下に落ちている。
岩肌にこすれた跡がある。何かを引きずったような。血の跡。
「崖下の岩陰に入れた。狼に見つからないように」
コンラートが斜面を見下ろす。
「崖は狼が降りられない。岩陰なら匂いも風で散る。……そう願って置いてきた」
「どのくらい経っていますか」
「置いてきたのは昨日の朝だ」
丸一日以上。
斜面を降りた。コンラートが先に行こうとしたが、足が滑った。リリアが腕を掴んだ。
「……すまん」
「いいから」
◇
岩陰に、二人がいる。
動かない。
——この距離なら届く。
リリアは斜面の途中で両手をかざしていた。走りながら、もう光が溢れている。
二人を包む。
——指が動いた。壁にもたれている方の男。生きている。
斜面を駆け下りる。足場が崩れる。構わない。
コンラートが後ろから降りてくる。
「ユルゲン。ハインツ。——迎えに来た」
ユルゲンの目が、薄く開く。
唇がひび割れている。声がかすれて、ほとんど息だった。
「……来た、のか……」
「ああ。来た」
ユルゲンの目がリリアに移る。
「……誰だ……」
「ヒーラーだ。連れてきた」
ユルゲンの唇が動く。声にならない。目の端が光っている。
リリアはもう膝をついていた。聖水をかけ、手をかざし、光を注ぎ込んでいく。さっきの範囲回復で魔力はほとんど残っていない。それでも手が止まらなかった。出血が止まる。傷が塞がっていく。だが骨はまだだ。内臓の傷もまだ治りきっていない。光がちらつき始めている。もっと。もう少しだけ——
「やめろ」
コンラートの手がリリアの手首を掴んでいた。
「……まだ、です」
「続けないとこいつらは死ぬのか」
「……死にません」
「なら止めろ。お前が倒れたら四人で帰ることになる」
離してほしかった。あと少しで骨が繋がる。ハインツの脚はまだ折れたままだ。このまま動かしたら——
でもコンラートの手は離れない。強い力ではない。ただ、離さない。
リリアはハインツの脚を見た。
歩けない。でも、死なない。
「……分かりました」
手を下ろすと、視界が傾いた。
◇
日が傾いていた。
コンラートが空を見上げる。
「今から登って、村まで歩くと夜になる」
「……はい」
「夜の街道で狼に会いたいか」
リリアは首を振る。
「ここで朝を待つ。崖は狼が降りられない」
コンラートが岩陰を見回す。
「火を焚ける。岩が風を防ぐ。悪くない」
ユルゲンが壁にもたれたまま口を開く。
「……昨日の夜も……ここで火を焚いた。狼は……降りてこなかった」
コンラートが頷いて、斜面を登っていく。薪を集めに行くのだろう。リリアも立ち上がろうとしたが、膝から崩れた。
「お前はそこにいろ」
斜面の途中から、コンラートの声が降ってきた。
◇
火が燃えている。
コンラートが崖の上から集めてきた枯れ枝に、リリアが火の魔法で炎を点けた。手のひらの中で小さな火を作って、枝に移す。それくらいの魔力ならまだ残っている。
岩壁が熱を返して、狭い岩陰がゆっくり温まっていく。ハインツはまだ目を覚まさない。呼吸だけが規則正しく続いている。ユルゲンは火を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……あんたたちが来なかったら、もう一晩は持たなかったと思う」
火の向こうでユルゲンの目が揺れている。
「ハインツは昨日の夕方から意識がなくなって……俺も、今朝から腕の感覚がなくなりかけてた」
リリアは何と答えればいいか分からなかった。間に合ったのだ。間に合ったけれど、骨は繋げなかった。もう少し魔力が残っていたら。あと少しだけ、コンラートが待ってくれていたら。
「村に戻ったら、全部治します。骨も、内臓も」
自分に言い聞かせるような声になった。ユルゲンが小さく頷いて、目を閉じた。
火の爆ぜる音だけが続いている。
「……子狼の声が聞こえたんだ」
目を閉じたまま、ユルゲンが言った。
「昨日の夜。あの岩の向こうから」
リリアは岩陰の奥に目をやった。灰色の毛が散らばっている。子犬くらいの大きさの毛玉が、いくつも。
「巣が近いんだ」とコンラートが言った。「だから群れがここにいた。餌場を守ってたんじゃない。巣を守ってたんだ」
子狼がいるから、親が狩りをする。親が狩りをするから、人が襲われる。
——誰が悪いわけでもなかった。
火が爆ぜて、小さな火の粉が岩壁に散った。
◇
夜が深くなっていく。
コンラートが火の番をしている。ユルゲンは眠った。ハインツの呼吸は穏やかだ。
リリアは眠れなかった。目を閉じると、ハインツの脚の感触が手のひらに残っている。途中まで繋がりかけた骨。あと少しだった。
遠くから、遠吠えが聞こえてきた。
低く、長い声が山に響いて、消えないうちに別の声が重なる。何頭もの声が呼び合っている。
崖の上だ。この崖の、すぐ上。
降りては来ない。ユルゲンが言ったとおりだ。でも——いる。火の明かりが岩壁に揺れるたびに、自分たちの影が大きくなったり小さくなったりしている。その影の向こうに、あの声の主たちがいる。
親が子を呼んでいるのだろうか。それとも仲間を失った群れが、悼んでいるのだろうか。
遠吠えは止まなかった。リリアも目を閉じなかった。
◇
朝。
空が白んできた。いつの間にか遠吠えは止んでいる。
ハインツの意識が戻っていた。岩壁を見上げて、それからリリアの顔を見た。
「……ここは」
「崖の下です。もう大丈夫ですよ」
ハインツは何も言わなかった。目を閉じて、また開けた。自分が生きていることを確かめるように。
コンラートがハインツを背負い上げて、リリアがユルゲンに肩を貸した。斜面を登る。昨日降りた時より、ずっと長く感じた。
街道に出ると、朝の光が白い道を照らしていた。
◇
村の北門が見えた時、ユルゲンが膝から崩れた。
「——もう少しです」
「……分かってる」
歯を食いしばって立ち上がる。最後の坂を登りきると、門の内側にイルマがいた。その後ろに村人が何人か。一晩中ここで待っていたのだろうか。
「——生きてる」
イルマの声が裏返った。
ユルゲンとハインツが宿に運ばれていくのを見届けて、リリアはその場にしゃがみ込んだ。膝が笑っている。
少し眠れば魔力は戻る。戻ったら一人ずつ治す。ハインツの脚の骨を繋ぐ。ユルゲンの内臓を治す。やることは分かっている。
宿の一室を借りて横になった。目を閉じたら、すぐに落ちた。
目が覚めると、窓から差し込む日が高かった。昼を過ぎている。
魔力が戻っている。
ハインツの脚から始めた。昨夜、崖下で途中まで繋げた骨の続きだ。あの時はここで止められた。今度は最後まで繋ぐ。
折れた骨を合わせ、裂けた筋を一本ずつ修復していく。時間がかかった。
途中でハインツが目を開けた。天井を見て、それからリリアの手元を見た。何も言わなかった。
ユルゲンの腹に移る。内臓の傷は深かったが、聖水で洗っておいたおかげで化膿していない。
二人の治療を終える頃には、日が西に傾き始めていた。
◇
宿の部屋の扉を開けると、ミラが部屋の隅に座っていた。膝を抱えて、ドアの方を見ている。
ミラがリリアの顔を見た瞬間、立ち上がって走ってきた。何も言わずに腰にしがみつく。
「……ただいま」
ミラが頷いた。顔を上げない。
テーブルの上の銀貨は、昨日の朝置いた時のまま一枚も減っていなかった。
もともとは、討伐隊の2人が殺されて戻ってこられないくらい
ハード展開にするつもりが、過剰回復がある以上
リリアさんは、生きている可能性が0でなければ見捨てる人ではなかったな…と
モンスター襲撃までの話数が増えてしまいました。
実際に大けがすると「なおりかけ」って状態があるものなので
リリアさんの魔法も「骨がまだくっついてない」って状態を描いたりしたのですが
普通は、回復魔法の表現でこんな事に話数割かないですよね。




