峠道の出会い
それは——神の食べ物であった。
テオブロミン——
ギリシャ語で「神の食べ物」を意味するテオブロマ・カカオ。その主成分である。
心臓を強く打たせ、血管を広げ、気管支を開く。
かつては心臓病の薬として、喘息の治療薬として処方された。
このテオブロミンを豊富に含むのが——チョコレートである。
1847年、イギリスのフライ社がカカオバターを加え、「食べるチョコレート」を生み出した。
固形になったことで、携行が可能になった。
溶けにくく、軽く、高カロリー。
疲労を忘れさせ、意識を覚醒させ、極限状態でも人を動かし続ける。
兵士の携行食。探検家の命綱。登山家の切り札。
フライ社の創業者ジョセフ・フライは、医師であり薬剤師であった。
カカオの薬効を信じた男。
その息子たちが、固形チョコレートを発明した。
医師の息子たちによる発明品、すなわち——
ヒーラーが使用可能な『治療食』である!!
◇
天狼たちが、備蓄庫に殺到した。
銀色の包み。甘い香り。
神の食べ物を、貪り食った。
テオブロミンは、代謝がきわめて遅い犬科の動物には——少量で猛毒となる。
リリアの過剰回復オーバーキュアで大幅に増幅された効果が、狼たちに牙をむいた。
◇
勝ち誇るように雄叫びを上げていた狼たちが——
急に、静かになった。
泡を吹いた。
痙攣した。
倒れた。
◇
次々と。
次々と。
百を超える天狼たちが——戦わずして地に伏していく!
神の食べ物は——神の眷属には、猛毒であった。
◇
——これは、数日前の話。
◇
街道を歩いていた。
アダマ村を出てから三日。北へ向かう道は、少しずつ登りになっている。
ミラが隣を歩いている。
隣を。
前を歩いていた頃もあった。裾を掴まれていた頃も。でも今は、並んで歩いている。歩幅を合わせると、自然とそうなった。
◇
「……寒い?」
聞いてみた。
「ううん」
ミラが首を振る。
マルタさんがくれたマフラーを巻いている。ぐるぐる巻きにすると顔の半分が埋まる。鼻と目だけ出して、もごもご話す。
「……あったかい」
「よかった」
それだけの会話。
でも、前はこれも難しかった。
◇
道がぬかるんでいた。
雪解け水が染み出している。
ミラが立ち止まった。何も言わずに荷物を下ろして、木靴を取り出す。履き替えて、フェルトの靴を袋にしまった。
リリアは何も言わなかった。
言わなくてよかった。
前は、気づかなかった。足が痛くても言わなかった。靴が合わなくても、我慢していた。
今は、自分で気づいて、自分で判断している。
ミラが歩き出す。木靴が泥を踏む音。
リリアも歩き出した。
◇
「リリア」
名前を呼ばれた。
「なに?」
「あの山、雪」
ミラが指さす。北の山並み。頂上が白い。
「……きれいだね」
「うん」
ミラが頷く。マフラーの奥で、目が細くなった。
前は、景色を見る余裕なんてなかった。
◇
四日目の夕方。
街道の先に、荷車が見えた。
ロバが二頭、繋がれている。灰色の大きい方と、耳の長い小さい方。荷車の傍に二人の男がいた。
「おい。どこまで行く」
声をかけられた。
「ヴェグシャイトまで」
「俺たちもだ」
若い方の男が、リリアとミラを見た。弓を背負っている。
「二人か。夜を越すのは厳しいぞ。一緒に来るか」
◇
荷物を確認していた男——運び屋のゲルトは、四十がらみの無口な男だった。
弓を背負った男——護衛のニコは、二十代半ば。よく喋る。
「途中で南行きの連中とすれ違ってな。北で狼が出たらしい」
ニコが言った。
「……狼」
ミラが呟いた。
「でかいのがいたって話だ。二人で夜を越すのは勧めねえな」
リリアは頷いた。
「……お願いします」
◇
日が暮れる前に、街道を外れた。
木立の中に開けた場所があった。焚き火の跡がある。旅人が使う野営地らしい。
「火を起こすぞ」
ニコが枯れ枝を集め始めた。
「……私がやる」
ミラが言った。
ニコがミラを見た。
「お、やる気だな」
◇
ミラが火打ち石を取り出した。
小さな手で握りしめて、打ち合わせる。
カチ、カチ。
火花が散る。でも、火口に移らない。
カチ、カチ、カチ。
リリアは手を出しかけて、やめた。
ニコも黙って見ている。
◇
何度目かの火花が、ようやく火口に移った。
ミラが息を吹きかける。小さな炎が揺れた。
枯れ枝に火が移る。
「……ついた」
「おお」
ニコが声を上げた。
「やるじゃねえか」
ミラの耳が赤い。
◇
焚き火が大きくなった。
リリアは荷物から袋を取り出した。茶色い皮が入っている。
「これ、くべていい?」
ニコに聞いた。
「なんだそれ」
「栗の皮」
火にくべた。ぱちぱちと音を立てて、青い炎が揺れる。香ばしい匂いが広がった。
「へえ……」
ニコが焚き火を見つめた。
「いい匂いだな」
「一粒の栗を、二度いただく……って、教えてもらったの」
「誰に?」
「……昔、泊めてもらった宿の人」
ヨハンナさんの顔が浮かんだ。ベルちゃんの鈴の音。あの夜の温かさ。
「ミラ」
リリアは袋をミラに渡した。
「覚えておいて。いつか使えるから」
ミラが袋を受け取った。中を覗いて、頷いた。
「……うん」
◇
ロバたちに水をやる時間になった。
ゲルトが桶を持ってきた。沢で汲んできた水だ。
「グレイ、モリー、水だ」
ゲルトが呼ぶ。ロバたちが近づいた。でも、桶に顔を近づけて、すぐに離れた。
「……」
ゲルトが桶を見た。
リリアは黙って近づいた。桶の前にしゃがんで、両手で水をすくう。
——火の魔法。
ほんの少し。
手のひらの中で、水が温まっていく。
「……おいで、グレイ」
ロバが近づいてきた。リリアの手のひらに顔を寄せて、水を飲んだ。
ごく、ごく。
また水をすくった。温めた。差し出した。ロバが飲んだ。
何度も、何度も。
◇
「……助かる」
ゲルトが言った。初めて聞いた声だった。低くて、静かな声。
「砂漠の生き物だからな。冷たい水だと飲まねえ」
「知ってたんですね」
「知ってても、一人じゃ火を起こす余裕がなくてな」
ゲルトはロバの首を撫でた。
「いつもは夜まで待たせちまう」
リリアは何も言わなかった。
モリーの長い耳が、ぴくりと動いた。
◇
夜。
焚き火を囲んで、毛布にくるまった。
「俺とゲルトで交代で見張る。寝てていいぞ」
ニコが言った。
ミラはもう眠っている。リリアの隣で、小さな寝息を立てている。
「……ありがとうございます」
「礼には及ばねえよ。火起こしも水やりも手伝ってもらったしな」
ニコは弓を膝に置いて、夜の闇を見つめた。
「明日の昼には着く。峠を越えりゃすぐだ」
◇
リリアは横になった。
空に星が瞬いている。焚き火の炎が揺れる。栗の皮の香ばしい匂いが、まだ残っていた。
——鋼鉄の守護神じゃなくても。
——火竜の吐息じゃなくても。
——こうやって、誰かを温めることはできる。
いつか思ったことを、また思い出した。
隣に小さな寝息がある。
それだけで、今は十分だった。
◇
五日目の昼。
峠を越えた。
眼下に村が見えた。石造りの建物。交差する街道。煙突から煙が上がっている。
「ヴェグシャイトだ」
ニコが言った。
「着いたな」
ゲルトが頷いた。
ミラが村を見下ろしている。目を細めて、眩しそうに。
「……大きい」
「アダマ村より少し大きいかな」
「……お店、ある?」
「たぶん」
「……何か買える?」
「何か欲しいものがあるの?」
ミラが少し黙った。
「……ミラも、何か持っておきたいなって」
「何か?」
「リリアみたいに。……役に立つもの」
リリアは足を止めた。
ミラも止まった。不安そうに見上げてくる。
「……変?」
「ううん」
首を振った。
「一緒に探そう」
ミラが顔を上げた。
◇
坂道を下りていく。
荷車の車輪が、石を踏んで軋んだ。グレイとモリーの蹄の音。ニコの鼻歌。ゲルトの静かな足音。
そして、隣を歩くミラの足音。
村が、近づいてくる。




