お父さんの部屋の匂い
八日目。
目を開けると、あれから三日が経っていた。窓の外はもう暗くなりかけている。
ここは村長の家らしい。エステルと一緒に運び込まれたとエステルが言っていた。
広めの部屋だった。ベッドが二つ。壁際に古い棚があって、埃をかぶった木彫りの人形が並んでいる。子供が使っていた部屋だろう。独立して出ていったのか、壁には絵を飾っていた跡が薄く残っている。
暖炉の火が燃えている。薪の爆ぜる音。エステルの家より、ずっと暖かかった。
「……起きた?」
隣のベッドから、エステルの声がした。毛布を首まで被って、こちらを見ている。
「……うん」
体を起こす。腕がまだ重いけど、動く。
村長の家。五年間、エステルに口もきかなかった人の家だ。
「ペルラは?」
「この家で預かってもらってる。無事だったよ」
エステルの肩から、力が抜けた。
「……よかった」
◇
扉がノックされた。
「失礼するよ」
グレタばあさんが入ってきた。ミラも一緒だった。
「おや、起きてるね。よかったよかった」
ばあさんが籠から瓶を取り出して、枕元に置いた。
「薬草茶だよ。体にいいから、飲みな」
「……ありがとうございます」
ばあさんがミラの方を向いた。
「これはミラちゃんに」
小さな布袋を差し出した。
「カールがよく買っていったハーブだよ。お守りにでもしておくれ」
ミラが受け取って、紐を解いた。口を開けて、匂いを嗅いだ。
動きが止まった。
「……お父さんの部屋の匂い」
小さな声だった。
「……いつも、この匂いがした。寝る前に、おやすみって言いに行くと」
ミラが布袋を胸に抱いた。目を閉じて、もう一度匂いを嗅いでいる。
グレタばあさんがミラの頭をそっと撫でた。
◇
扉が開いて、奥さんが顔を覗かせた。
「ご飯できたよ。食べられそう?」
台所に行くと、甘い匂いが広がっていた。蜂蜜と、どこか青くさい温かい匂い。
奥さんが鍋をかき混ぜている。白っぽい粥の中で、パンの欠片がふやけて崩れかけている。
「エステルちゃん、ペルラ元気にしてるよ。ズラタと仲良くしてる」
「……ズラタ?」
「うちの山羊。良い子だねえ。塩、喜んで舐めるんだよ」
エステルは何も言わなかった。
「硬くなったパンを乳で煮たの。エステルちゃんのお母さんに教わったんだよ」
エステルが顔を上げる。
「……母さんが?」
「よそから来た人だったからね。乳で煮て、蜂蜜を入れるのがいいって」
奥さんの声は、どこか懐かしむような響きがあった。
◇
食卓の前で、エステルが立ち止まっている。
「エステルさん、こっち」
ミラが椅子を引いた。エステルがゆっくりと腰を下ろした。
◇
足音がした。重くゆっくりした足音。
村長が戻ってきた。顔に土埃がついている。復興作業だろう。
手に布に包まれた小さなもの。テーブルの上にそっと置いて、奥の部屋に入っていく。何も言わずに。
ミラがこちらを見た。布を開くと、卵が二つ。冬の卵は貴重品だ。
奥さんが溜め息をついた。
「……ペトル。どこから持ってきたのかしら」
でも、目元が緩んでいる。ペトル。村長の名前だ。
奥さんが粥をよそい分けて、卵を割り落とす。すぐに匙でかき混ぜた。黄身が散って、粥全体がふんわりと黄色く染まった。
「ミルカさん、私も手伝う」
ミラが立ち上がる。ミルカ。奥さんの名前だ。
◇
五人で食卓を囲んだ。
ペトルとミルカとミラは煮込み。エステルとリリアはパン粥。
「さ、冷めないうちに」
ミラが匙を取った。ペトルが黙って食べ始める。
エステルは動かない。椀を見つめている。
「……エステルちゃん。食べないと」
エステルが匙を持ち上げた。粥をすくう。口に運ぶ。
◇
一瞬、エステルの動きが止まった。もう一口、また一口と、震える手で匙を運ぶ。
「——この味」
「……覚えてる。小さい頃、母さんが——熱を出した時、作ってくれた」
ミルカが静かに微笑んだ。
「そう。あの子に教わった通りに作ったから」
エステルが俯いた。肩が小さく震えている。
ミルカは何も言わなかった。ただ、自分も食べ始めた。
ペトルは黙って食べている。時々、ちらりとエステルの方を見る。視線が合いそうになると、すぐに逸らす。
◇
匙を口に運んだ。
温かい。ほんのり甘い。パンの欠片が舌の上でほろりと崩れる。三日ぶりの、まともな食事だった。
「……美味しい」
「よかった」
ミルカが笑った。
ミラが煮込みを頬張っている。口の周りにキャベツがついている。ミルカが「ほら」と指さして、ミラが慌てて拭く。
エステルもゆっくりと匙を動かし始めた。
◇
「明日、パンを焼くの手伝ってくれる?」
ミルカがミラに話しかけた。ミラが頷く。
「エステルちゃんは、ペルラに会いたいでしょう。明日、連れてきてもらおうか」
「……はい」
「お墓の方も、掃除しておいたから。うちの人、あそこの掃除だけは欠かさなかったんですよ」
匙の音が止まった。
エステルがゆっくりと顔を上げた。ペトルを見ている。
ペトルは——エステルを見なかった。視線を落として、黙って、また食べ始めた。
◇
五年間、一度も話しかけてこなかった。道で会っても、目を逸らされた。
でも——
両親の墓は、いつも綺麗だった。雪が積もれば、誰かが掃いていた。草が伸びれば、誰かが刈っていた。
◇
粥が冷めていく。エステルがまた匙を動かし始めた。ゆっくりと、一口ずつ、母の味を噛みしめるように。
——言葉にしない。顔も合わせない。でも、ずっとそこにあった。
エステルの肩が小さく震えている。泣いてはいなかった。でも、五年間凍りついていた何かが、溶けていくのが見えた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。




