長い夜の終わり
足音が聞こえた。
一つじゃない。複数の足音が、こちらに向かってくる。
起き上がれない。首を動かすのも、やっとだ。視界の端に、誰かが走ってくるのが見える。
「リリアさん!」
ミラの声だった。
◇
青緑色のローブが、視界に飛び込んでくる。
ミラが駆け寄ってきた。息を切らしている。目が赤い。泣いていたのか、煙のせいか、分からない。
「リリアさん……! リリアさん……!」
膝をついて、顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫」
声が掠れた。喉が乾いている。
「大丈夫だよ、ミラ」
ミラの目から、涙が溢れた。
◇
「よかった……」
ミラが、崩れるようにその場にしゃがみ込んだ。
「よかった……生きてて……」
肩が震えている。声を殺して、泣いている。
手を伸ばした。ミラの頭に触れようとして——腕が上がらない。
「……ごめん」
指先だけが、ミラの髪に触れた。それが精一杯だった。
◇
「リリアさん! エステルおねえちゃん!」
小さな足音。リーザが走ってくる。パッチを抱えたまま。
「だいじょうぶ? けがしてない?」
しゃがみ込んで、二人の顔を覗き込む。
「……大丈夫だよ」
エステルが答えた。声が掠れている。泣いた後だから、余計に。
「リーザは? 怪我してない?」
「うん! パッチもだいじょうぶ!」
パッチがにゃあ、と鳴いた。
◇
マルタが、少し遅れてやってきた。
息を切らしている。リーザを追いかけてきたのだろう。
立ち止まって、倒れている二人を見下ろした。エステルを見て、それから、崩れたゴーレムを見た。
何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。口が開いて、閉じて、また開いた。
「……封じたの」
「……うん」
エステルが答える。
「二人で」
マルタの視線が、エステルから、こちらに移った。
「……あんたも、戦ったのかい」
「……少しだけ」
嘘だ。少しだけじゃない。でも、説明する気力がなかった。
◇
他の足音も聞こえてきた。
村人たちだ。火を消し終えた人たち。避難していた人たち。一人、また一人と、広場に集まってくる。
ゴーレムがあった場所——今は泥の山になっている——を見て、立ち止まる。
囁き声が聞こえる。
「……倒したのか」
「……封印師の娘が……」
「……あの子が……」
◇
一人の男が、前に出てきた。
初日に道を聞いた農夫だ。鍬を持っている。
男がエステルの方に歩いてくる。マルタが、少しだけ身構える。
男は、エステルの前で立ち止まった。見下ろしている。エステルは、仰向けに倒れたまま、男を見上げている。
「……怪我は」
「……ない」
「……そうか」
男が、膝をついた。
「……ありがとう」
低い声。震えている。
「……村を、守ってくれて」
エステルの目が、大きくなる。信じられない、という顔。
◇
囁き声が、広がっていく。
「……倒した」
「あの子が……」
「エステルが……一人で……」
一人じゃない。二人だ。でも、訂正する声は出なかった。
エステルの横顔が見える。何かを堪えているような、信じられないような、複雑な表情。
五年間、避けられてきた。触れてもらえなかった。「おばけ呼び」と言われてきた。
それが今——名前で、呼ばれた。
◇
「一人じゃない」
エステルが、声を絞り出した。
「……え?」
「一人で倒したんじゃない」
エステルが、首を動かした。こちらを見た。
「この人が……リリアが、一緒に戦ってくれた」
視線が集まるのが分かった。村人たちの目が、こちらを向いている。
「封印しかできない私の代わりに、ゴーレムを止めてくれた。腕が動いて、足が動いて……私だけじゃ間に合わなかった」
エステルの声が、少しずつ強くなっていく。
「リリアがいなかったら、私は死んでた。だから……ありがとうって言うなら、この人にも言って」
◇
農夫が、こちらを見た。
初日に道を聞いた時、この人は目を逸らした。よそ者に関わりたくない、という顔だった。
今は違う。
「……あんたも、ヒーラーか」
「……はい」
「ヒーラーが、ゴーレムと……」
最後まで言えなかった。言葉が詰まっている。
農夫が、深く頭を下げた。何も言わずに。
他の村人たちも、頭を下げ始めた。一人、また一人と。
何と返せばいいか、分からなかった。
泥まみれで、傷だらけで、地面に倒れたまま。
返す必要があるのかも、分からなかった。
◇
「担架を持ってきてくれ」
農夫が叫んだ。
「この人たちを運ぶ。動けないんだ」
足音が散っていく。誰かが走り出す音。
「うちに運ぼう」
女の声がした。
「宿は壊れてる。うちなら部屋が空いてる」
「いや、うちの方が近い」
「あの子には暖かい部屋を——」
声が重なり合う。さっきまで避けていた人たちが、エステルを受け入れようとしている。
——まだ「あの子」だ。名前じゃない。
でも、さっきより近い。少しだけ。
エステルが、息を呑んでいる。信じられないものを見ている、という顔。
◇
担架が運ばれてきた。
体が持ち上げられる感覚。視界が揺れる。空が動いていく。
隣に、もう一つの担架がある。エステルがいる。目が合った。
エステルの目が、まだ潤んでいた。さっき泣いた涙とは違う。何かを堪えているような、でも堪えきれないような。
五年間、一度もなかったことが、今起きている。
村人たちが、エステルを助けようとしている。
◇
誰かの家に運び込まれた。
暖炉の火が燃えている。温かい空気が、冷えた体に染み込んでくる。
毛布をかけられた。厚い、温かい毛布だ。
「ゆっくり休みな」
知らない女の声。優しい声だった。
「何か要るものがあったら、遠慮なく言って」
視界がぼやけてくる。意識が薄れていく。
◇
小さな手が、指先に触れた。
——ミラだ。
冷たい指。震えている。ずっと握りしめていたのか、汗ばんでいる。
顔が見えた。泣いている。何か言おうとして、言葉にならない。
でも、手を離さない。
——ああ。
この感触を、知っている。宿屋で過ごした数日間。朝、起こしに来てくれた時の手。一緒に薬草を採りに行った時の手。夜、おやすみを言いに来た時の手。
同じ手だ。
戦う前と、同じ手だ。
——戻ってきた。
ミラが、何か言った。聞き取れなかった。でも、分かった。
握り返そうとした。指が動かなかった。それでも、触れている。それだけで十分だった。
目を閉じる前に、窓の外を見た。
空が白み始めていた。東の空が、赤く染まり始めている。
長い夜だった。
でも——終わった。
そのまま、眠りに落ちた。




