声
手の中の棒が、光り始めた。
淡い光だった。蛍のように、ゆっくりと。金属の感触が薄れていく。形が崩れていく。粒子になって、空気に溶けていく。
役目を終えた道具が、消えていく。
——ありがとう。
心の中で呟いた。誰に向けてか分からない。ただ、そう思った。
最後の光が消えた時、エステルの声が聞こえた。
「——母さん」
◇
エステルの目が開いている。でも、焦点が合っていない。こちらを見ているようで、見ていない。どこか遠くの、見えない誰かを見ている。
「エステル」
呼びかけても、返事がない。
膝で這うようにして、エステルに近づいた。立ち上がれない。
ゴーレムの攻撃を受け止めるなんて、重装備の騎士ですら支援や強化魔法を幾重にもかけてやっとだ。受け流したのが精一杯とはいえ、あの重い打撃を——攻撃を受けることを想定した訓練も鍛錬も積まないヒーラーの身体に、見えないダメージが積み上がっていた。
腕が重い。指先の感覚が鈍い。
頬に触れた。冷たい。血の気が引いている。
「エステル。聞こえる?」
瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。
「……リリア」
声が掠れていた。唇が震えている。
「大丈夫。終わったよ」
◇
エステルが、自分の手を見た。泥がこびりついている。爪の間にも、手首にも。ゴーレムの背中に押し当てていた手だ。
「……終わった」
呟くように言った。自分で言った言葉を、確かめるように。
「うん。終わった」
エステルが、崩れ落ちたゴーレムを見る。泥の山になっている。さっきまで動いていたものが、もう動かない。
「……私が、封じたの?」
「うん」
「……一人で?」
「二人で」
エステルが、こちらを見た。
「二人で、勝ったんだよ」
◇
遠くで、まだ火が燃えている。誰かが水を運ぶ声が聞こえる。子供の泣き声も。でも、ここだけが静かだった。泥の山と、二人と、夜の空気だけ。
エステルが、口を開いた。
「……声が、聞こえた」
「……」
「母さんの声」
——胸が詰まった。
さっき見た女性の姿が、頭に浮かぶ。銀色の髪。閉じた瞼。静かに佇んでいた人。あの人が——エステルの母親だったのか。
「……何て」
「『大きくなったね』って」
エステルの声が、震えた。
十三歳で別れた娘が、十八歳になっていた。母の目に、今の娘はどう映ったのだろう。
「……それから」
エステルが、こちらを見た。目が濡れている。
「『もう、一人じゃないね』って」
◇
一人じゃない。
母は、私を見たのだろうか。エステルの隣にいる私を。
——最後に、あの人がこちらを見た気がした。
あれは、確認だったのかもしれない。この人になら、娘を任せられる。そう思ってくれたのかもしれない。
でも——私は、あの人の後ろにあった石を砕いた。
解放したのか。終わらせたのか。分からない。どちらだとしても、それを言葉にする資格がなかった。
言えない。今は、言えない。
◇
エステルが、両手で顔を覆った。
肩が震えている。声を殺している。でも、止まらない。
五年間、一人で耐えてきたのだろう。村の子に「おばけ呼び」と言われても。誰にも触れてもらえなくても。暗い家で一人で眠っても。
泣かなかったのかもしれない。泣いたら負けだと、どこかで思っていたのかもしれない。
でも、今——母の声を聞いて。「大きくなったね」と言われて。「一人じゃない」と言われて。
堰が切れた。
嗚咽が漏れる。声を殺そうとして、殺しきれない。肩が震えて、体が震えて、涙が止まらない。
◇
——何もできなかった。
気の利いた言葉も出てこない。抱きしめる力も残っていない。腕が重くて、体が動かない。
だから、ただ隣にいた。
這うようにして、エステルのそばに座る。肩が触れる距離。それだけしかできない。
エステルが泣いている。今まで流せなかった涙を、全部流している。
何も言わずに、ただ隣にいた。
◇
どのくらい経っただろう。
エステルの肩の震えが、少しずつ収まっていく。
「……ごめん」
掠れた声だった。
「謝らないで」
「……変なこと、言った」
「変じゃないよ」
エステルが顔を上げた。目が赤い。頬が濡れている。
「……母さんの声、五年ぶりに聞いた」
「……」
「忘れかけてた。どんな声だったか」
エステルが、空を見上げた。
「でも、聞いた瞬間に分かった。この声だって。ずっと聞きたかった声だって」
◇
あの女性のことを、言葉にできなかった。
代わりに、エステルの手を握った。冷たい手だった。泥で汚れている。ずっと一人で戦ってきた手だ。
エステルが、握り返してきた。強く。
その力に、少しだけ安心した。
◇
体が限界だった。
エステルの手を握ったまま、そのまま後ろに倒れ込んだ。背中が地面に着く。冷たい土の感触。頭が空を向いている。
隣で、エステルも倒れる音がした。
体が動かない。指先がかすかに震えている。腕も、足も、もう言うことを聞かない。ゴーレムとの戦いで、全部使い果たしてしまった。
◇
目の前に、夜空が広がっている。
雲が切れていた。月が出ている。星も、いくつか見える。さっきまであんなに暗かったのに。戦っている間は、空を見上げる余裕なんてなかったのに。
白い光が降り注いでいる。泥の山になったゴーレムを照らしている。倒れている二人を照らしている。
首を少しだけ動かした。隣を見る。
エステルの横顔が、月明かりに浮かんでいた。泥で汚れた頬。まだ赤い目。いつもの隈が、この光では見えない。
穏やかな表情だった。
エステルも、空を見ている。同じ月を、同じ星を見ている。
何も言わなかった。言葉はいらなかった。
冷たい地面に寝転がったまま、手を繋いだまま、二人で夜空を見ていた。




