封印
「動ける?」
エステルの声が聞こえた。
「……うん」
立ち上がる。足が震えている。でも、動ける。
エステルが隣に立った。
「……動かないで」
手が伸びてきた。袖で、額を拭われる。乾きかけた血がべたついていた。さっき治してもらった傷。塞がっているけど、血だけが残っていた。
——その時、気づいた。
体が軽い。さっきより周りがよく見える。薄暗いはずなのに、ゴーレムの輪郭がはっきり分かる。
さっき治してもらった時とは、違う。回復魔法は傷を塞ぐもの。これは——体の内側から力が湧いてくる感覚。
補助魔法だ。
いつかけてくれたのか分からない。気づかなかった。
ヒーラーの補助魔法は、本人には分かりにくい。体が軽くなっても、元からそうだったように感じる。視界が澄んでも、自分では気づけない。
だから、感謝されない。パーティーで「何もしてない」と言われる。
——でも、私は知っている。
「……ありがとう」
エステルの手が止まった。
エステルの額からも、まだ血が流れている。さっき庇ってくれた時の傷だ。
「……傷、治すから」
手を伸ばす。エステルの額に触れる。温かい光が広がって、傷が塞がっていく。
——もう一つ。気づかれないように。
「……ありがと」
小さな声。目を逸らしたまま。
二人で、泥の巨人を見上げた。
片腕。胸に大穴。それでも——まだ動いている。
◇
「マルタさん! その子たちを連れて!」
広場の隅で、マルタがミラとリーザを抱えていた。パッチがリーザの腕の中で鳴いている。
「ギルドの人のところへ! 暗くても制服ですぐ分かる!」
マルタが頷いて、路地へ走り出す。ミラがこちらを振り返った。淡い青緑色のローブが、闇に溶けていく。
——待ってて。
◇
「下がってて」
エステルが前に出た。
「え——」
「私の家系は、ゴーレムを眠らせることができる。魔石に意識を通じさせて、動きを止める」
振り返らない。ゴーレムに向かって歩いていく。
「お父さんとお母さんも、そうやって村を守った」
足が止まらない。背中を見ている。
「……死んだけど」
息が止まった。
「封じている間は、意識が向こうにいく。体は動かせない。無防備になる」
エステルが振り返った。黒い瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「二人でやれば、片方が守れる。でも私は一人だから」
両親は二人だった。それでも死んだ。エステルは一人。
「だから私がやる。あんたは関係ない」
◇
——関係ない。
そうかもしれない。私はこの村の人間じゃない。通りすがりの旅人だ。
でも。
——似た者同士、かもね。
あの言葉が、胸の奥に残っている。
「……私も、ヒーラーだから」
エステルが目を見開いた。
「守るのは得意じゃない。でも、少しなら時間を稼げる」
「一人で死なせない」
◇
エステルが何か言おうとした。でも、ゴーレムが動いた。
首がこちらを向く。残った腕が、振り上げられる。
「——来る」
エステルが足を踏み鳴らした。カン、と音がする。
ゴーレムが反応した。腕の軌道が変わる。エステルに向かって。
——エステルを狙ってる。
振り下ろされる。
エステルが横に跳んだ。腕が地面を叩く。土埃が舞う。
◇
その隙に——エステルがゴーレムに近づいていた。
手を伸ばす。泥の体に触れる。
ゴーレムの動きが、一瞬だけ鈍くなった。
——意識を通じさせてる。
でも、腕の戻りが速い。
薙ぎ払い。エステルの背中を狙って。
避けられない。
◇
体が動いていた。
防御魔法。普通は薄く広げて、全身を覆う。
——でも、あの質量は受け止められない。
だから、一点に集める。拳より少し大きいくらいに。受け止めるんじゃない。逸らす。
エステルの前に飛び込む。光の塊を、腕にぶつけた。
ガン、と衝撃が走る。
腕が逸れた。風がエステルの頭上を通り過ぎる。
光が砕けた。手がじんじんする。
◇
エステルが振り返った。
目が合った。
何も言わない。でも——通じた気がした。
小さく頷いた。
◇
ヒーラーは、敵に真っ先に狙われる。
でも、戦闘で表に出ることはない。後ろで待機して、傷ついた人を治すのが仕事だ。
囮として気を引くことはある。でもそれは、前衛との信頼が深くなければできない。僅かにどちらかに迷いがあれば、片方が死ぬ。最悪、両方とも。そういう場面を、何度も見てきた。
自ら攻撃を受けにいき、紙一重でさばく。
こんな戦い方は、見たことがない。どうすればいいのか、知らない。
でも——エステルとなら。
◇
二人で動く。
エステルが足を鳴らす。ゴーレムが反応する。腕が振り上げられる。
振り下ろされる——その軌道に、私が入る。
光の塊を作る。腕に当てる。逸らす。
エステルが隙を突いて近づく。手を伸ばす。触れる。動きが鈍くなる。
腕が戻る。薙ぎ払い。私が逸らす。
繰り返す。
気づいたら——体が覚えていた。
◇
——守れてる。
エステルを、守れてる。
言葉はいらない。
エステルが動く。私が守る。それだけでいい。
——悪くない。
◇
でも——限界が近い。
エステルの息が荒くなってきた。意識を通じさせるたびに、何かを削られている。
私も。光の塊を作るたびに、腕が重くなる。
「……あと一回」
エステルが言った。
「次で、封じる」
封じている間は動けない。
「任せて」
エステルが小さく頷いた。
◇
ゴーレムが動いた。
もう、考えなくていい。
エステルが走る。
私が逸らす。
背中に回り込む。
両手を押し当てる。
目を閉じる。
◇
ゴーレムの動きが止まった。
膝が折れる。崩れるように、前のめりに。
◇
「……止まった?」
エステルの声が掠れている。目を閉じたまま。手を押し当てたまま。
止まったように見えた。
——ここまで持ちこたえたのが、奇跡だった。
本来、ヒーラーがゴーレムと渡り合えるはずがない。一撃でも食らえば終わり。ずっと紙一重だった。
直接ゴーレムの腕と渡り合う戦士や騎士、不意打ちを仕掛けるシーフなら、ゴーレムの弱点も動きも知っている。でも私は、敵と直接やり合う機会がなかった。知らないことばかりだった。
——だから、気づくのが遅れた。
残った腕が、動いていた。
本体は膝をついている。意識はエステルに封じられている。なのに、腕だけが。
後ろ向きに動き始めた。体を旋回させるのではない。関節が組み替わり、二の腕がぐるりと外側を回って、後ろを向く。
ゴーレムは目で見ない。音で感じ取る。向きという概念がない。背中だから安全、ということがない。
人間にはありえない動き。ゆっくりと、でも確実に。
エステルに向かって。
「エステル! 離れて!」
返事がない。
目を閉じたまま。動かない。意識が、向こうにいってしまっている。
腕が、エステルに向かっている。
——動けない。
◇
——だめ。
——エステルを、死なせるわけにはいかない。




