泥の巨人
走る。
村外れから宿まで、歩けば数分の距離。今は永遠に感じる。
——まだ何も言ってない。
答えを出すのに、あと何日かかるつもりだったのか。4日、5日、もっと先かも。
そんな時間は、なかった。
◇
村の中を駆け抜ける。
家が燃えている。壁が崩れている。泣き叫ぶ声が聞こえる。
——助けを呼んでる。
なのに、足は止まらない。止められない。
——ミラ。
◇
宿が見えた。
壁に何かが突き刺さっている。
松だ。太い松の幹が、壁を貫いている。
三本松。なんだか少ない気がする——暗くて見間違えたのかもしれない。
見間違いじゃなかった。
◇
「ミラ!」
宿に飛び込む。誰もいない。
ストーブの前で足が止まった。
鍋がひっくり返っている。中身が床に広がって、蕪と豆の匂いが漂っている。マルタさんの煮込みだ。
毎晩、この匂いで「ただいま」と思った。ミラと並んで食べた。温かかった。
「ミラ! どこ!」
返事がない。
三本松が少ないと思った。確認しなかった。畑の柵が壊れていた。風のせいだと思った。煙が上がっていた。夕飯の支度だと思った。
全部、見逃した。
心が解けていた。温かくて、緩んでいて。
この日常を——守れなかった。
明日死ぬかもしれない。いや、今日死ぬかもしれない。いつもそう思って生きてきた。その感覚が、一気に戻ってくる。
◇
裏口から外に出ると、広場の方から地響きが聞こえた。
走る。角を曲がる。息が切れる。
広場に出た瞬間、足が止まった。
泥の巨人がいた。
家より大きい。目がない。でも、何かを探すように首を動かしている。
広場の奥——建物の壁際に、リーザがいた。パッチを抱きしめて、座り込んでいる。動けないでいる。
ゴーレムが、リーザに向かって歩き出した。
一歩。また一歩。あの足に踏まれたら——
カンカンカン、と音がした。
金属を叩く音。ゴーレムの足が止まる。首が動く。音のした方へ。
路地の入り口に、小さな影が立っていた。鍋を持って。
淡い青緑色が、薄闇に浮かんでいる。
あのローブは——
——ミラ。
生きてた。無事だった。でも——何をしてるの。
鍋を叩きながら、足を踏み鳴らしている。一歩、二歩。ゴーレムに近づいていく。
——この子は、囮になっている。リーザを逃がすために。
心臓が握り潰されるような気持ちになった。あんな小さな体で。あんな大きなものの前で。
ゴーレムが向きを変えた。リーザから、ミラへ。
その隙に、マルタがリーザを抱えて走り出すのが見えた。
でも——ミラが近すぎる。逃げられない距離まで、自分から近づいてしまっている。
◇
両手が振り上がる。
左右の手の指を、互い違いに組み合わせる。拳を一つにする。
振りかぶる。胸ががら空きになる。
あれが振り下ろされたら——ミラは形も残らない。
◇
——誰も、犠牲者を出したくない……!!
最終救護ラスト・レスキュー——
光が集まる。鋼の守護神ガトリング砲が舞い降りる。
ハンドルを回す。
ガコン!
歯車がかみ合い、六本の筒が咆哮を上げる。
"ズドドドドドドドッ!!!"
左側面から、胸を抉っていく。
泥が弾け飛ぶ。最初は細かい粒になって、砂のように、霧のように。次に、拳大の塊が剥がれ落ちる。ぼろぼろと、崩れるように。
胸の真ん中に、穴が開いた。向こう側が見える。
ゴーレムの動きが、止まる。
組み合わせた両手が——ほどける。力なく、だらりと垂れ下がる。
ハンドルから手を離した。
◇
——心臓だ。
生き物には心臓がある。そこを壊せば、止まる。
考える前に、体が動いていた。
ヒーラーは人の体を知っている。どこに何があるか。どこを守れば生きられるか。どこを壊せば——死ぬか。
◇
——間に合った。
ミラが、その場にへたり込むのが見える。
生きてる。
息を吐く。膝が震える。ハンドルを握っていた手が、汗でぬるぬるする。自分の顔が緩むのが分かる。
よかった。
まだ何も言えてない。答えも出せてない。でも——この子が生きてる。それだけで——
◇
ミラがこちらを見ない。
座り込んだまま、顔が強張っている。安心した顔じゃない。何かを見ている。
視線を追った。
泥の巨人が、動いている。
胸に大穴を開けたまま。両腕をだらりと垂らしたまま。首だけが、ゆっくりとこちらを向く。
——止まってない。
心臓じゃなかった。
◇
ハンドルを回す。
"ズドドドドドド——"
ゴーレムが自分の腕を掴む。
引きちぎる。
その腕が、こちらに向かって飛んでくる。
◇
轟音。世界が揺れた。
体が浮いて、地面に叩きつけられる。耳が聞こえない。頭の中で鐘が鳴っている。
目を開ける。視界がぼやける。土埃で何も見えない。
手は——ある。足は——動く。
おかしい。あの質量だ。鋼の守護神ガトリング砲ごと、腕の一本や二本は持っていかれてもおかしくない——
土埃が晴れていく。
誰かが、前に立っていた。
黒い髪。細い背中。両手を広げて、何かの構えを取っている。
「——遅かったら死んでた」
聞こえない。でも、唇の動きで分かる。
エステルが振り向いた。額から血が流れている。
「……エステル、さん……?」
声が出たかどうかも分からない。耳がまだ鳴っている。
エステルの手が伸びてきて、額に触れた。
温かい光が広がる。耳鳴りが引いていく。体の痛みが和らいでいく。
「回復魔法、使えるって言ったでしょ」
◇
ヒーラーは、自分自身を癒せない。
だが——
ここにヒーラーが二人いる。




