陽だまりの終わり
エステルの家を背に、丘を下る。
手のひらが、まだ湿っている。ペルラに舐められた跡だ。ざらざらした舌の感触が残っている。
——似た者同士、かもね。
エステルの声が、まだ耳に残っている。
胸の奥が、まだ温かい。
◇
随分と長居してしまった。冬の陽は早い。
三本松が見えてきた。村の入り口の目印だ。
……なんだか少ない気がする。
暗くて見間違えたのかもしれない。手のひらに光魔法を灯した。
足元を照らしながら歩く。冷たい風が頬を撫でていくけれど、不思議と寒くない。身体の芯が温まっているからだろう。
◇
救急鞄の中で、小さな包みが揺れている。エステルからもらった油だ。
——爪の根元にも。毎日塗って。
そうだ、ミラにもやってあげなきゃ。
あの子の手を取った時、驚いた。爪が薄くて、白っぽくて。オークの砦で、どれだけ辛い思いをしたんだろう。私は自分の傷ばかり治していて、気づいてあげられなかった。
今夜は、ちゃんと見てあげよう。手を取って、爪を見て、油を塗って。エステルが私にしてくれたみたいに。
◇
——チーズを食べなさい。身体を作るものが足りてないんだよ。
エステルの言葉を思い出す。
チーズ。
……そういえば、約束してたんだった。
「旨いチーズを見つけたら、お土産にたのむ!」
鉄ヒゲの声が、不意によみがえった。
あの鉱山で、私は初めて誰かの食卓を変えた。三十年変わらなかったシチューに、白いチーズをふりかけた。それだけのことが、あんなに嬉しかった。
マルタさんの煮込みにも、合うかもしれない。
……今度、言ってみようか。
◇
明日は、ミラも連れてエステルのところに行こう。
三人でヴズヴァルを飲んで、ペルラを撫でて。リーザも来たら、四人と一匹だ。パッチも入れたら、四人と二匹。
……にぎやかだ。
戦場では、仲間が増えるのは怖いことだった。増えた分だけ、失う可能性が増える。誰かと親しくなるたび、その人の死に方を想像してしまう。だから、深入りしない。名前だけ覚えて、顔は覚えない。そう決めていた。
なのに今、みんなの顔が浮かぶ。
エステルの、少し不器用な笑い方。ペルラの、ざらざらした舌。リーザの、猫を抱きしめる腕。マルタさんの、大きな手。
ミラの、私の服を掴む小さな指。
全部、覚えている。全部、大事だと思っている。
……明日、何をしよう。
そんなことを考えている自分に気づいて、足が止まった。
いつもは「明日、生きているだろうか」だった。朝起きたら、まず鞄の中身を確認する。包帯は足りるか、薬は残っているか。今日死なないための準備。明日を楽しみに思う余裕なんて、どこにもなかった。
なのに今、明日が待ち遠しい。
いつぶりだろう。思い出せないくらい、遠い昔のことだ。
風が吹いた。冷たいはずなのに、寒くなかった。
◇
——待ってる。
ミラの声が、不意によぎった。
あの子は毎晩、私の隣で眠る。何も聞かない。でも、服の裾を掴む小さな手が、聞いている。
……答えは、まだ出せない。
考えないようにして、歩き出した。
◇
畑の横を通り過ぎる。
柵が倒れていた。木の破片が地面に散らばっている。
……風かな。冬は風が強いから。
指先が冷たくなってきた。ヴズヴァルの温もりが、少しずつ抜けていく。
歩き続けた。
◇
村が見えてきた。
煙が上がっている。マルタさんの煮込み、今日は何だろう。蕪かな、豆かな。
……煙突の位置じゃない。
指先が、急に冷えた。
屋根から。
壁から。
黒い煙が、村のあちこちから立ち上っている。
悲鳴が聞こえた。気づいた時には、もう走り出していた。




