赤スグリの午後
五日目の朝。
ミラの目が少し腫れている。でも何も言わない、いつも通りに振る舞おうとしている。
何も言えないまま朝食を食べる。
——待ってる。
昨夜の声がまだ耳に残っていて、うまく飲み込めない。
◇
昼過ぎ。
ミラはリーザと遊んでいる。パッチを追いかけて、リーザが笑って、ミラも少しだけ笑う。
その笑顔を見ていたら、胸が詰まった。この子はこんなふうに笑えるのに、まだ何も答えを出せていない。
いたたまれなくなって、一人で外に出る。
◇
気づいたら村はずれまで歩いていた。
三本松を過ぎて、丘を越える。昔からの目印だとマルタさんが言っていた。三本並んだ背の高い松が、旅人に村の入り口を教えてくれるのだと。
エステルさんの家が見えてくる。なぜここに来たのか自分でも分からない。ただ、誰かと話したかった。答えを持っている誰かと。
ペルラが庭にいる。
こちらを見て、耳をぴくりと動かした。でも近づいてこない。一歩踏み出すと後ずさりして、蹄で何度も地面を掻いている。いつもより落ち着きがない。
——村の人には絶対近づかないのに。
前に会った時のエステルさんの言葉を思い出す。ミラの時は違った。ミラが近づいたら逃げなかった。自分から鼻先を寄せて、撫でられて、目を細めていた。
こっちには——そうしない。
……分かっているのかもしれない。この山羊は、人の心の何かを見ている。ミラの中にある寂しさを、エステルさんと同じ孤独を。だから近づいた。
……自分の中には、何が見えているんだろう。
「……また来たの」
エステルさんが戸口に立っている。
「ミラは」
「宿にいます。今日は一人で」
「……そ」
それだけ言って、エステルさんは中に入っていく。ついてこいという意味だろう。
◇
また薬草茶を出してくれた。
一口飲む。
……前と違う。
苦味の奥に、甘酸っぱい何かが溶けている。舌の上で広がって、身体の芯に染み込んでいく。冷えていた指先が、じんわりと温まる気がした。
「……美味しい」
思わず声が出た。
「そう」
エステルさんは自分の茶を啜りながら、こちらを見ない。
「……これ、何ていうんですか」
「ヴズヴァル。母の故郷の飲み物」
エステルさんはポットの蓋を開けた。中を覗くと、赤い小さな実がいくつも沈んでいる。
「赤スグリと蜂蜜を煮出したやつ。……この辺の人は知らない」
「夏に採って、干して、冬に使う。母に教わった通りに」
遠い土地から嫁いできた母が持ち込んだ知恵。この村では、エステルだけが知っている味。
「……いいんですか、こんな」
「余ってた」
嘘だ、と思った。でも何も言えなかった。
「……そのローブ」
エステルさんの視線が、肩に移った。今日は救急鞄じゃなくて、古いローブだけ羽織ってきている。
「魔法学校の卒業式でもらうやつでしょ」
「……はい」
「母も持ってた。同じの。色褪せるまで着てた」
「お母さんも、ヒーラーだったんですか」
「封印師と兼業。回復魔法、中級くらいまで教わった。あの人が死ぬ前に」
知らなかった。封印師の家系だとは聞いていたけど、ヒーラーでもあったなんて。
「ゴーレムさえいなければ、私も魔法学校に行くはずだった」
エステルさんが窓の外を見る。ペルラが庭で草を食んでいる。
「母と同じ道を歩いて、いつか誰かを助けるヒーラーになって。……そのはずだった」
「……」
「でも十三で一人になった。村を離れられなくなって、それで五年」
五年。
その言葉の重さが、胸に落ちてくる。十三歳から十八歳まで。たった一人で、避けられながら、怖がられながら、それでもこの村を守り続けた五年。
「……聞きたいことがあるんです」
「何」
「エステルさんは——どうして、ここに残ったんですか」
茶碗を持つエステルさんの手が、一瞬止まった。
「……逃げることもできた。この村を出て、どこか遠くで暮らすこともできた」
「でも、残った」
「ああ」
エステルさんが窓の外を見る。小さな家々と畑、働く人たちの姿が見える。
「逃げたら——次にゴーレムが出た時、誰が封じるの」
「……」
「私が逃げたら、村の人が死ぬ。私を怖がって、避けて、近づかない。それでも——この村の人たちだから」
エステルさんの目がこちらを向いた。まっすぐに。
「……あんたは、何から逃げてるの」
息が詰まる。
「……え」
「旅をしてる。子供を連れて。でも、どこかに根を下ろす気はない。違う?」
「……」
「逃げてるんでしょ。何かから」
答えられない。図星だから。
エステルさんは追及しない。茶を啜って、また窓の外を見た。
「……私は逃げなかった。それが正しかったのか、分からないけど」
「でも、後悔はしてない?」
「後悔?」
エステルさんが小さく笑った。初めて見る表情だった。
「毎日してる。なんでこんな家に生まれたんだろうって。なんで私だけ残されたんだろうって」
「……」
「でも後悔しても——ゴーレムは待ってくれない。私が封じなきゃ、誰が死ぬか分からない」
「……私も、追い出されました」
気づいたら、口が動いていた。
「私の回復魔法は、融通が利かなくて。傷だけじゃなく、刺青も、古傷も、全部消してしまう」
エステルさんが茶碗を置いた。
「命を救っても、怒られるんです。『余計なことをするな』『お前の治癒は迷惑だ』って」
言葉にすると、また傷が開くみたいで苦しい。でも、なぜかこの人の前では話せた。
「どこへ行っても同じでした。助けても感謝されない。『出ていけ』って言われて、また次の場所を探して」
「……何回」
「……数えるのをやめました」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
茶の湯気だけが、ゆらゆらと揺れている。
「……逃げられるだけ、マシかもね」
エステルさんが呟いた。声が少しだけ柔らかくなっている。
「私は逃げられない。逃げたら、この村が終わる」
「……」
「でも時々、思うんだ」
エステルさんは窓の外を見つめたまま、続けた。
「全部捨てて、どこか遠くに行けたら、って。知らない街で、知らない顔して、普通に暮らせたら、って」
初めて聞く、弱音だった。
あの冷たい目をした少女が、誰にも言えなかった本音を漏らしている。
「……でも、朝が来ると、また封印の準備をしてる。馬鹿みたいでしょ」
「馬鹿なんかじゃ」
「馬鹿だよ。誰にも感謝されないのに」
エステルさんが振り返った。
目が合った。黒い瞳の奥に、見覚えのある色がある。
孤独の色。ずっと鏡で見てきた、あの色。
「……あんたも、そうでしょ」
「……はい」
「感謝されない。理解されない。それでも続けてる」
「……はい」
「なんで」
「……分かりません。でも、やめられない」
「……そっか」
エステルさんが、ふっと笑った。さっきまでとは違う、どこか柔らかい笑み。
「……似た者同士、かもね」
その言葉が、胸の奥に染みていく。
似た者同士。
生まれて初めて、そう言われた気がする。「迷惑」でも「怖い」でもなく、「同じ」だと。
「……手、見せて」
不意に言われて、思わず手を出した。
エステルが手を取る。指先をじっと見ている。
「……爪が薄くなってる」
「え」
「割れかけてる。ここ」
言われて初めて気づいた。爪の端が白っぽく、脆くなっている。
「あんただけじゃない。あの子も」
ミラのことだ。
「身体を作るものが足りてないんだよ。旅の間、ろくに食べてなかったでしょ」
図星だった。オークの砦では、まともな食べ物すらなかった。道中は乾パンと干し肉ばかり。ミラには少しでも多く食べさせていたけど、それでも足りなかったのか。
エステルは棚から小さな壺を取り出した。
「ひまわりの油。夏に種を搾って作る」
蓋を開けると、ほんのり甘い香りがした。
「……庭で育てる分だから、毎年これだけしか取れない」
「これは去年の残り。余ってたからあげる」
小さな壺。五年間、少しずつ大切に使ってきたのだろう。
——余ってた。
さっきのヴズヴァルと同じだ。嘘だと分かっていても、何も言えない。
「こうして使うの」
エステルが手を取った。指の一本一本に、油を塗り込んでいく。
温かい。
手と手が触れている。指先から、じんわりと熱が伝わってくる。
「……爪の根元にも。毎日塗って」
「はい」
声が少し掠れた。
「それと——」
エステルは手を離さないまま、続けた。
「宿のおかみさんに言って。あの子にチーズを食べさせてって」
「チーズ?」
「乳は身体を作る。チーズなら日持ちするし、毎日少しずつ食べられる」
「……分かりました」
「あんたも」
「え?」
「あんたも食べなさい。自分の分、抜いてるでしょ」
何も言えなかった。見抜かれている。
エステルの手がようやく離れた。指先が冷たくなる。
「……これ、持っていって」
小さな包みを渡された。油を染み込ませた布。こうして少しずつ使っていたのだろう。次の夏まで、大事に。
「あの子の爪にも塗ってあげて」
「……唇、荒れてるね」
不意に言われて、思わず口元に手をやった。
「回復魔法じゃ治せないんだ、ああいうの。身体の中が足りてないと、外だけ治しても戻る」
「……」
「酸っぱい果物と蜂蜜がいいって、母に教わった」
だから、このヴズヴァル。
エステルさんは何も言わずに立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。革の表紙がボロボロになった古い本。
「これ、母の日記」
「……見せてもらっていいんですか」
「いい。大したこと書いてないし」
日記を受け取って、開いた。丁寧な文字が並んでいる。
——今日、エステルが初めて封印の呪文を唱えた。まだ力は弱いけど、筋はいい。この子なら、いつか私たちを超えるだろう。
——エステルが泣いている。村の子に「おばけ呼び」と言われたらしい。どう慰めればいいか分からない。私たちも、同じことを言われて育ったから。生まれ育った村と遠く離れていても、どこでも同じだ。
——この役目を継がせることが、正しいのか分からない。でも、誰かがやらなければ。私たちが死んだら、エステルしかいない。
胸が痛んだ。継がせたくなかったのに、継がせるしかなかった。その苦しみが、文字の奥から伝わってくる。
ページをめくる手が止まる。
最後の日付。両親が死んだ日。
——今日、ゴーレムが出た。大きい。今までで一番大きい。でも、やるしかない。エステルを守るために。この村を守るために。
「……ここで、終わってる」
「ああ」
エステルさんが日記を受け取った。
「父の日記もある。同じようなことが書いてある。役目への覚悟と、私への謝罪と」
「……」
「二人とも、私に継がせたくなかったんだと思う。でも、継がせるしかなかった」
エステルさんが日記を棚に戻す。その背中が、小さく見えた。
「私は——二人の覚悟を、無駄にしたくない」
窓の外で、ペルラが鳴いた。短く、鋭く。
エステルさんが窓に目をやって、一瞬だけ眉をひそめた。でも何も言わずに茶を啜る。
「……名前」
「え?」
「リリア、でしょ。マルタが言ってた」
「……はい」
「私はエステル。……まあ、もう知ってると思うけど」
「はい、エステルさ…」
「さん、いらない」
エステルはぶっきらぼうに言って、茶を啜った。
耳が少し赤い気がするのは、気のせいだろうか。
◇
「……長居してすみません」
「別に。暇だし」
立ち上がって庭に出た。
ペルラが歩いてきた。さっきは後ずさりしたのに。
鼻先を、そっと手に押しつけてくる。温かい息が手のひらにかかった。
「……珍しい」
エステルが戸口に寄りかかって見ている。
「この子が自分から近づくの、あんたで二人目」
「一人目は?」
「ミラ」
ペルラの頭を撫でた。ふわふわの冬毛が指に絡む。
「……この子は分かるのかもね」
「何が」
「似た者同士かどうか」
エステルが目を逸らした。
「……また来てもいいよ。暇だから」
「え?」
「ミラも連れてきて」
振り返ると、エステルはもう中に入りかけていた。
「エステル」
呼び止めると、エステルの足が止まった。振り返らない。
「……ありがとう。話を聞いてくれて」
「……別に」
「また来ます」
少しだけ間があった。
「……待ってる」
小さな声。振り返らないまま、エステルは家の中に消えた。
一人残された庭で、ペルラが手をぺろりと舐めた。
胸の奥が、少しだけ温かい。
こんな気持ちになったのは、いつぶりだろう。




