白い山羊
二日目の朝。
窓の外は白く曇っている。冬の空だ。
久しぶりに、朝までぐっすり眠れた気がする。温かい食事と、柔らかいベッドのおかげだろうか。
ミラはまだ眠っている。毛布を顎まで引き上げて、小さく丸まっている。
起こさないように、静かに部屋を出る。
◇
食堂に降りると、マルタがパンを切っている。
「早いね」
「おはようございます。あの、ギルドで仕事を探そうと思って」
「そうかい。朝飯は?」
「帰ってきてから、ミラと一緒に」
マルタが頷く。
◇
ギルドに入ると、昨日の受付の男がいる。
「おはよう。仕事かい」
「はい。簡単なものがあれば」
「そうだな……」
男が棚から紙を取り出す。
「薬草採取。村の北の丘に生えてる冬イラクサを摘んできてくれ。籠一杯で銅貨五枚」
「受けます」
「籠は貸し出しだ。あと、これも」
男が棚から革のミトンを取り出す。
「イラクサは素手で触ると酷い目に遭うからな。返却は籠と一緒でいい」
◇
宿に戻ると、ミラが起きていた。
食堂の椅子に座って、足をぶらぶらさせている。パッチが足元にいる。
「おはよう」
「……おはよう」
「仕事取ってきた。薬草採取。一緒に行く?」
ミラが頷く。
◇
マルタが朝食を出してくれる。
固いパンと、昨日の煮込みの残り。温め直してある。朝でも美味しい。
「北の丘かい。気をつけな。あの辺は風が強いから」
「ありがとうございます」
「昼までには戻っておいで。午後から雪になるかもしれない」
◇
村を出た。
北に向かって歩く。畑はもう冬枯れで、茶色い土が広がっている。霜が降りて、白く光っている。
ミラが服の裾を掴んでいる。いつもの癖だ。
「寒い?」
「……大丈夫」
吐く息が白い。
◇
丘の斜面に着く。
枯れ草の間に、緑の葉が見える。冬イラクサだ。寒さに強い薬草で、傷薬の材料になる。
「ここで採るね。ミラは……」
見回す。風を避けられる場所。
「あの岩の陰にいて。風が当たらないから」
ミラが首を振る。
「……手伝う」
「ダメ。イラクサは棘に毒があるの」
ミラが首を傾げる。
「蕁麻疹って知ってる? あの『蕁麻』は、イラクサのこと」
「刺さると赤く腫れて、痒くて痛くて、ひどいとしばらく動けなくなる」
ミラの顔が少し強張る。
「……リリアさんは、平気なの」
「平気じゃないよ。でも、採り方があるの」
ギルドで借りたミトンをはめ直す。
「棘は下向きに生えてるから、根元から先に向かって撫でるように摘めば刺さらない」
「あと、手袋は厚手じゃないとダメなの」
ミラが頷く。
「……見てる」
結局、ミラは近くにしゃがんだ。膝を抱えて手元を見ている。
◇
黙々と採る。籠が半分ほど埋まった頃、ミラが立ち上がる。
「……リリアさん」
「ん?」
「あれ」
指差す先を見る。
丘の向こう側。少し離れた場所に、白いものが見える。
◇
近づいてみる。
山羊だ。
真っ白な毛並み。冬毛がふわふわに膨らんでいる。枯れ草の根元を、鼻先でつついている。
首に紐がついている。飼い山羊だ。でも、持ち主の姿は見えない。
「……かわいい」
ミラが小さく言う。
服から手を離して、山羊に近づいていく。珍しい。この子が自分から何かに近づくのを初めて見る。
山羊が顔を上げた。ミラを見て、一度だけ鳴く。メェ、と短く。
逃げない。
ミラがしゃがんで、手を伸ばす。山羊の頭をそっと撫でる。
「……ふわふわ」
山羊が目を細める。気持ちよさそうに。
ミラの顔が、少しだけ緩んだ。砦を出てから初めて見る、柔らかい表情。
◇
「触っても怖くないの」
声がする。
振り返る。
丘の上に、人影が立っていた。
少女だ。私より少し年上くらいで、黒い髪を一つに編んでいる。地味な色の服は裾が擦り切れている。
顔は綺麗なのに、どこか陰がある。目の下には薄い隈。
「その子、人見知りなの。村の人には絶対近づかないのに」
抑揚のない声。驚いているのか、いないのか。分からない。
「……この子のご主人ですか」
「この子、ペルラっていうの」
少女が丘を降りてくる。
ミラが山羊から手を離して、後ろに隠れた。また服の裾を掴む。
「……怖がらせた?」
「いえ、この子は人見知りで……」
少女がペルラの紐を取る。山羊は大人しく従う。
「そう」
それだけ言って、少女は歩き出す。
「あの」
呼び止めようとした。でも、何を言えばいいか分からない。
少女は振り返らない。白い山羊を連れて、丘の向こうに消えていく。
◇
宿に戻る。
籠いっぱいの冬イラクサ。ギルドに届けると、受付の男が言う。
「ああ、これはグレタばあさんの分だ。隣の薬屋に持っていってくれ」
◇
薬屋は小さな家だ。扉を叩くと、腰の曲がった老婆が出てくる。
「冬イラクサかい。ありがとうね」
籠を受け取って、中身を確認している。
「上等だ。これで煎じ薬が作れる」
銅貨五枚を手渡される。
「他に仕事はあるのかい」
「いえ、今日はこれで」
「そうかい。じゃあ、せっかくだ。ちょっと飲んでいきな」
老婆が奥に引っ込んで、湯気の立つカップを二つ持ってくる。緑がかった色。草の匂いがする。
「摘みたてのイラクサだよ。体にいいんだ」
一口飲む。
……苦い。青臭い。薬だ、これは。ミラも一口飲んで、顔をしかめた。
老婆が笑う。
「まあ、そうなるね。慣れないと飲めたもんじゃない」
カップを下げて、別の茶葉で淹れ直してくれる。今度はカモミールの甘い香り。
「……こっちの方がいい」
ミラが小さく言う。
「だろうね」
老婆がミラを見る。じっと、顔を覗き込むように。
「……この子は」
老婆がミラを見る。じっと、顔を覗き込むように。
「東の村の子かい」
「……ご存知なんですか」
「噂は早いからね。オークに攫われて、ヒーラーさんに助けられたって」
老婆がしゃがんで、ミラの顔を覗き込む。
「……待ちな。その顔……カールの娘さんかい」
ミラが、びくっと肩を震わせる。
「ああ。うちの薬草のお得意さんでね。村に家具を納めに来るたび、買っていってくれたんだよ。腕のいい木工職人でさ、薬箱も作ってもらった」
老婆が棚を指差す。小さな木の箱が並んでいる。蓋に細かい彫刻が施されている。
ミラが、棚に近づく。乾燥した薬草の束を、じっと見ている。
手を伸ばしかけて、止める。
「……触っていいよ」
老婆が言う。ミラが薬草の束を手に取る。鼻に近づけて、匂いを嗅ぐ。
「……お父さんの部屋の匂い」
小さな声。ほとんど独り言。
老婆が、少しだけ目を細める。
「器用な人だったよ。奥さんを早くに亡くして、男手一つで娘を育てて——」
言葉が途切れる。
「……そうかい。あんたが、ミラちゃんかい」
ミラが俯く。何も言わない。
老婆が奥に引っ込んで、何かを持ってくる。
小さな帽子。毛糸で編んだ、青い帽子。
「うちの孫娘が小さかった頃のだよ。もう使わないから、あんたに」
老婆がミラの頭に帽子を乗せる。少し大きいけど、耳まで隠れる。
「カールがね、よく言ってたんだよ。『うちの娘は寒がりでね』って」
ミラの肩が、小さく震えた。
「冬は寒いからね。風邪ひかないようにね」
ミラが帽子の縁を触る。
「……ありがとう、ございます」
小さな声。震えている。
老婆が目を細めて笑う。
「いい子だね。お父さんに似て」
食堂でマルタが昼食を用意してくれていた。
「お帰り。雪の前に戻れてよかったね」
「ただいまです」
席に着く。温かいスープ。今日は豆じゃなくて、蕪が入っている。
「……あの、北の丘で女の子に会いました」
マルタの手が止まる。
「黒い髪の。白い山羊を連れてて」
「……ああ。エステルに会ったのかい」
昨日聞いた名前だ。ゴーレムを封じる家の子。
「少しだけ話しました。この子が山羊を撫でてて」
ミラを見る。ミラはスープを見つめている。
「……そう」
マルタの声が少し低くなる。
「あの子の山羊、村の人には絶対近づかないんだけどね」
「……はい。エステルさんもそう言ってました」
マルタが窓の外を見る。空が暗くなってきている。雪が降り出したらしい。白いものがちらちら舞っている。
「……五年前にね」
マルタが静かに言う。
「あの子の両親が死んだんだ。ゴーレムを封じようとして、失敗して」
「……」
「それ以来、あの子は一人で暮らしてる。十三の時から、ずっと」
十三。今は十八くらいだろうか。五年間、一人で。
窓の外で、雪が強くなってきた。
スープを見つめる。
湯気が立っている。温かい。
でも、あの子は——一人で、この冬を過ごしているのか。
「……可哀想だとは思うよ。でも、みんな怖いんだ」
ミラが袖を引っ張る。
見ると、ミラがこちらを見上げている。
何か言いたそうな顔。でも、言葉にならない。
「……ミラ?」
「……あの子」
小さな声。
「……お友達、いないの?」
答えられなかった。
◇
窓の外は、もう真っ白だ。
雪が降り積もっていく。静かに、音もなく。
ペルラを撫でていた時のミラの顔を思い出す。
あの山羊は、村の人には近づかないと言っていた。
でも、ミラには近づいた。
——触っても怖くないの。
あれは、山羊のことだけじゃなかったのかもしれない。
◇
その夜、ミラは夢を見て泣いた。
何も言わない。ただ、服を掴んで、ぎゅっと目を閉じている。
ミラの背中をさすりながら、あの黒髪の少女のことを考えていた。
一人で暮らしている。
村の誰も関わらない。
五年間。
私もいつか、ああなるのだろうか。
一人で生きて、一人で死んでいくのだろうか。
……いや。
ヒーラーの5年後生存率は、全ジョブ中最も低いという。
5年も続けられるかどうか。
考えないようにした。
早いと2話目でモンスターが襲ってくるこの作品ですが
「10歳児とのスローライフ」なこの章の2話目は
ファンタジーものでよくある「薬草採取クエ」でした。
そのへんに生えてる草をとってくるだけですが、こうしてみると
バイト代程度は出してくれる理由が何となくわかった気がします。




