マルタの宿
宿を探した。
村の中心に、一軒だけ看板を出している建物がある。
「マルタの宿」——少し傾いだ看板。古い建物だけれど、玄関の前だけは綺麗に掃き清められている。
扉を開けると、カランと鈴が鳴る。
足元を何かが通り過ぎた。茶色と白のまだら模様の猫。こちらを一瞥して、カウンターの下に潜り込んでいく。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から女性が出てくる。三十代くらいだろうか。髪を後ろで一つに束ねて袖をまくっている。赤く荒れた手は、毎日の水仕事の証。
「泊まり?」
「はい。二人で」
女性——マルタは、こちらとミラを交互に見た。それから、ミラの服を見る。薄い生地。季節外れ。裾が汚れている。ぶかぶかの手袋とマフラーは、明らかに大人のもの。
「……訳ありかね」
「え」
「いいさ、聞かないよ。この村に来る人間は、大抵そうだからね」
足元をまた猫が通り過ぎる。さっきと同じ茶白の猫。こちらを一瞥して、ストーブの前に丸くなった。
「ママ、だれー?」
カウンターの下から小さな女の子が顔を出す。四つか五つくらい。マルタと同じ茶色の髪。布の人形を抱えている。ワンピースを着た女の子の人形で、茶色い毛糸の髪と、青い糸で縫われた目。
「リーザ、お客さんだよ。邪魔しないの」
「おきゃくさん!」
リーザが立ち上がって、ミラを見上げる。きらきらした目。人見知りの欠片もない。
「おねえちゃん、旅の人?」
リーザがストーブの前の猫に振り向く。
「パッチ、お客さんだって!」
パッチが、ちらりとこちらを見て、また目を閉じた。
「おねえちゃん、旅の人?」
ミラが——人形を見ていた。
じっと。動かない。
「……ミラ?」
声をかけると、ミラが我に返ったように瞬きする。
「……うん」
小さな声。服を掴む手に、いつもより力が入っている。
リーザが嬉しそうに笑う。
「リーザね、リーザっていうの! おねえちゃんは?」
「……ミラ」
「ミラおねえちゃん!」
マルタが苦笑しながら棚から鍵を取り出す。
「すまないね、人見知りしない子で。二階の奥の部屋だ。狭いけどベッドは二つある」
鍵を渡しながら、もう一度ミラを見る。服を見て、足元を見て。
「……その靴、大きすぎるね。それで歩いてきたのかい」
「はい……次の村で何とかしようと思って」
「後で倉庫を見てみるよ。探せば何かあるはずだ」
マルタが少しだけ笑う。
「お湯、沸かしとくから。後で風呂使いな。その子の服も、洗っておくよ」
「あ、いえ、そこまで——」
「いいんだよ。旅の人が来るのも久しぶりだしね」
「着替えは……あんたのを借りるしかないだろうけど、明日にでも近所に聞いてみるよ。子供服のおさがり、探せばあるはずだから」
「……ありがとうございます」
「夕飯は下で出すから、日が暮れたらおいで」
◇
部屋は確かに狭い。でも、掃除が行き届いている。
窓からは夕日が差し込んで、壁がオレンジ色に染まっている。
ミラが窓辺に立って外を見ている。畑が広がり、家々が点在し、その向こうに崩れかけた遺跡が見える。村人たちが歩いているけれど、誰もが俯いて足早だ。笑い声ひとつ聞こえない。
「ミラ」
「……なに」
「お腹空いてない?」
救急鞄から飴を出す。砦を出る時に持ってきたもの。ミラが受け取って、口に入れる。
「……おいしい」
それだけ言って、また窓の外を見る。
手が、また袖に伸びてきた。掴む。離さない。
この子は何を言いたいんだろう。聞いてもいいのかな。でも、聞いたら答えられるのかな。答えられないことを聞かれるのは、辛いだけなのかな。
分からない。
◇
日が暮れた。
食堂に降りると、マルタが大きな鍋をかき混ぜている。湯気と一緒に豆と肉の匂いが立ち上る。お腹が鳴りそうになるのを堪える。
「座りな」
テーブルは三つあるけれど、客は二人だけ。隅のストーブの前で茶白の猫が丸くなって眠っている。
リーザが椅子の上に立って、こちらを見ている。
「ミラおねえちゃん、となりすわっていい?」
「リーザ、お客さんの邪魔しないの」
「いいよ」
ミラが小さく言う。リーザが嬉しそうに隣に座る。
マルタが深皿を置く。とろりとした茶色の汁に、白い豆がたっぷり。肉の塊がごろごろ見えて、湯気の中にローリエの香りが混じっている。
一口すくって、口に運ぶ。
豆がほくほく崩れて、舌の上でほどけていく。肉は煮崩れる寸前まで柔らかくて、噛むと脂の甘みが広がる。玉ねぎが溶け込んで、全体に優しい甘さがある。
……美味しい。
体の芯まで、じんわり温まっていく。ミラも黙々と食べている。スプーンを動かす手が止まらない。
「この村、昔はもっと人がいたんだよ」
マルタが自分の分を持って、向かいに座る。
「遺跡を見に来る学者とか、冒険者とか。宿屋も三軒あった。でも、もう誰も来なくなった」
「……何かあったんですか」
「ああ」
マルタが煮込みを啜る。
「あれが出るんだよ。時々ね。泥のでっかいやつが」
「泥の……?」
「ゴーレムっていうんだったかね。何十年かに一度、地面から出てきて、暴れて、また消える」
リーザがスプーンを振り回しながら言った。
「どろどろのおっきいのー! がしゃーんって!」
「こら、行儀悪い」
マルタがリーザの手を押さえる。
「前に出た時は、家が何軒か潰された。死人は出なかったけどね。みんな逃げ方を知ってるから」
ミラが、スプーンを持つ手を止める。
「……逃げ方」
「ああ。あれが出たら、とにかく逃げる。戦っても無駄だからね」
「……倒せないんですか」
「倒せるって話は聞いたことがある。でも、やり方を知ってる人間は、もういない」
マルタの目が、少しだけ曇る。
「……いや。一人だけ、いるかもしれないね」
「誰ですか」
「エステルっていう……」
マルタが言葉を止める。何かを言いかけて、飲み込んだように見えた。窓の外を見る。村のはずれに、一軒だけ離れて建っている家がある。他の家には明かりが灯り始めているのに、あの家だけ暗いまま。
「エステルおねえちゃん!」
リーザが急に声を上げる。
「あの子ね、おばけ呼ぶんだって!」
「リーザ!」
マルタが慌てて止めたけれど、リーザは続ける。
「だからね、近づいちゃダメなの。みんな怖いんだって。リーザもあっち行っちゃダメって——」
「リーザ、静かにしなさい」
マルタの声が低くなる。リーザがびくっとして黙った。猫がストーブの前で耳をぴくりと動かす。
リーザが黙ると、急に食堂が静かになった。スプーンが皿に当たる音も止まっている。
マルタが溜息をつく。
「……子供の言うことだよ。気にしないで」
「……」
「でもまあ、本当のことではあるんだ」
マルタが煮込みを見つめながら言う。
「あの家は代々、ゴーレムを封じる役目を負ってきた。でも、村の人間からすれば——呼ぶのも、封じるのも、同じに見えるんだろうね」
リーザが小さな声で言う。
「……エステルおねえちゃん、お友達いないの」
「そうだね」
「山羊さんとだけ、お話するんだって」
マルタがリーザの頭を撫でる。
「……可哀想だとは思うよ。あの子だって関係ないのにね。でも、みんな怖いんだ」
リーザが人形を抱き直す。さっきからずっと抱えている。
「……その人形」
気づいたら、聞いていた。
「ああ、これ? 私が作ったんだよ」
マルタが言う。
「前に、東の村の人に頼まれてね。カールさんっていう——木工職人でさ。うちにも棚を作ってもらったことがあるんだ」
ミラの手が、スプーンを握ったまま止まる。
「娘さんへの新年祝いの贈り物だって言うから、作ったんだけど……取りに来る前に、村が襲われて」
「……」
「届けられなくなっちゃってさ。仕方ないから、リーザにあげたんだ」
ミラが俯く。顔が見えない。
「……ミラ」
声をかけようとした時、ミラが顔を上げる。
「……おいしかった」
そう言って、スプーンを置く。目は、乾いていた。
皿を見つめる。煮込みはまだ温かい。でも、胸の奥が冷たくなっていく。
——私と、同じだ。
「……ごちそうさまでした」
「おや、もういいかい」
「はい。美味しかったです」
「そうかい」
マルタが少し笑う。
「明日の朝も作るからね。ゆっくりしていきな」
リーザが手を振る。
「ミラおねえちゃん、また明日ねー!」
ミラが小さく頷いた。
◇
部屋に戻ると、ミラがベッドに座って窓の外を見ている。
暗くなった村に、灯りがぽつぽつと点いている。でも、村のはずれのあの家だけ、暗いまま。
「ミラ」
「……なに」
「眠れそう?」
「……うん」
ミラが横になって、毛布を引き上げる。私も自分のベッドに横になる。天井の木目が、ランプの明かりでゆらゆら揺れている。
しばらくして、隣のベッドから物音がした。
毛布がめくれる音。床を踏む音。
私のベッドに、小さな体が潜り込んでくる。
「……狭いよ」
「……うん」
ミラが服の裾を掴む。ぎゅっと。
「……リリアさん」
「なに」
「……あの人形」
「……うん」
「……新年祝いに、くれるって」
小さな声。ほとんど息みたいな声。
「……届かなかった」
「……うん」
しばらく黙っていた。
「……でも、リーザちゃんが持ってた」
「……うん」
「……よかった」
よかった——そう言えるミラは、強い子だと思う。
ミラの寝息が聞こえてくる。穏やかな呼吸。さっきまで起きていたのに、もう眠っている。子供は眠りに落ちるのが早い。
裾を掴んでいた手が、ゆっくりと開いていく。離れる。
眠ると、離す。いつもそうだ。
——明日、この村を見て回ろう。
そう決めて、目を閉じた。




