C₉H₁₃NO₃。(アドレナリン)
針が押し当てられている。
ダリオは倒れている。フリントも動かない。
ミラが腕を引っ張っている。泣きながら、声にならない声で何か叫んでいる。でもオークは見向きもしない。ミラの力では、何も変わらない。
最終救護も使えない。何も残っていない。
助けを呼びたい。声が出ない。
誰にも届かない。誰も来ない。
◇
トマは座り込んでいた。
オークの背中が見える。リリアの頭を押さえつけている。針を構えている。
俺とミラは奴にとって獲物ですらない。あの子を連れて逃げられるかもしれない。——でも、あの足の速さだ。逃げ切れるわけがない。
石を拾った。握れる限り一番大きいやつを選んだ。立ち上がって、全力で投げた。
オークの背中に当たる。跳ね返って、地面に落ちた。
振り返らない。見向きもしない。さっきと同じだ。
ポケットに手を入れた。指先に何かが触れる。赤い矢だ。ダリオから預かったもの。
——見つかるとリリアが狙われる。
そう言われて渡された。でも今、リリアは狙われている。目の前で。
立ち上がった。
「おい!」
叫んだ。声が裏返った。
オークは振り返らない。
「こっちを見ろ!」
振り返らない。針がリリアのこめかみに近づいていく。
弱者は見ない。——そういう奴なのだ。
歩き出した。足音を殺さなかった。堂々と歩いた。オークの背後に近づいていく。
振り返らない。
首筋が見えた。
◇
赤い矢を突き刺した。先端が首筋に沈んでいく。
オークの手が止まった。
リリアのこめかみから針が離れていく。
オークがやっと振り返る。トマがいた。震えている。涙が流れている。それでも矢から手を離さない。
「お前……」
目を細めた。
「いたのか」
笑う。
「見えてなかった。弱者は見ない。それが俺の——」
言葉が止まった。
◇
——アドレナリン。
C₉H₁₃NO₃。
1900年、日本人の高峰譲吉と上中啓三が発見した。ウシの副腎から、世界で初めて結晶化に成功。
心臓が止まった人間を蘇生させる薬。100年以上、世界中で命を救い続けてきた「生かすための薬」だ。
心肺蘇生に用いる副腎髄質ホルモン製剤——すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!
◇
だが今、この薬は「止める」ために使われた。
12個の頭蓋骨。12回の死闘。より強い敵を求め、より激しい興奮を求め続けた果てに、この心臓はもう限界だった。
そして今日、刺され、焼かれ、穴だらけにされた。全員の攻撃が、少しずつ心臓を削っていたのだ。
たった一滴の「追加の刺激」——限界まで熱した鉄に、さらに火を注ぐようなものだった。
最後の一撃になった。
◇
オークの目が見開かれる。体が震えている。だが苦しんではいない。
「ついに……ついに俺は……」
心の底から笑った。
「『熱い』ぞ……!」
首飾りに手を伸ばし、12個の頭蓋骨に触れた。
「お前たちと……同じところに……」
声がかすれ、動かなくなった。
立ったまま、笑ったまま。
【位階の蒐集狂】のコレクションは12で終わった。13個目は——自分自身だった。
◇
しばらく誰も動けなかった。
フリントが最初に立ち上がり、オークの亡骸を見つめる。
「……弱者を見ない、か。それが命取りになったな」
トマが座り込んだ。赤い矢を握ったまま、手が震えている。
「俺……俺が……」
ミラがそばに座り、何も言わずに手を握った。トマは声を上げて泣き崩れた。今まで堪えていたものが、一気に溢れ出すように。
◇
ダリオが起き上がる。体中が痛むが、動けた。
フリントが肩を貸す。
「……生きてるか」
「なんとかな」
二人でリリアのところへ歩いていく。
「大丈夫か」
声をかけられた。ダリオの顔が見える。フリントの顔も見える。頷いたが、声は出なかった。
こめかみに手を当てる。血が滲んでいるが、穴は開いていない。
——生きてる。
◇
トマの手から赤い矢が落ちた。握りしめていた力がようやく抜けたのだ。
ミラがそばにいる。何も言わない。ただ、そばにいる。
あの矢はダリオがトマに預けたものだった。「見つかるとリリアが狙われる」と言って渡した、武器としては使えない歪んだ矢。
それでトマは刺した。弱者だと思われていた。眼中にすらなかった。それが最後の一撃になったのだ。
◇
立ち上がる。
オークが立っている。目を開けたまま、笑ったまま。
——『ごめんなさい』は言わなかった。
迷ったし、間違えたし、殴り飛ばされた。それでも謝る必要はなかった。
みんなが生きているのだから。




