C₁₀H₁₅NO。(エフェドリン)
オークが足元を見下ろしている。自分で壊した壁の破片が通路のあちこちに積み上がり、巨体には邪魔な足場になっている。
「……だから何だ。足場が悪いくらいで——」
一歩踏み出した瞬間、瓦礫を踏み砕いた足がわずかに滑る。舌打ちしてすぐ体勢を立て直すが、さっきより動きが鈍い。
「……あの柱」
ミラの小さな指が通路の奥を指している。天井を支える太い石柱。ひびが入って傾いている。
「あれを倒せば——天井が落ちる」
フリントが壁に手をついて起き上がり、ふらつきながら言う。
「俺が囮になる。あいつを柱の前まで誘い込んで、殴らせる」
「待ってくれ、さっき殴り飛ばされたばかりじゃないですか——」
トマが叫ぶ。フリントがトマを見た。
「だから行くんだよ。お前が気絶した時、ミラが盾になってくれたんだってな」
トマの顔から血の気が引き、ミラが俯く。
「こんな小さい子にできて、俺にできないわけがないだろ。それに——逃げるのは得意なんだ」
縄を手に取るフリントに、壁にもたれて立ち上がったダリオが声をかける。
「……死ぬなよ」
「死ぬかよ。柱を倒して、崩れる前に戻る。俺の足なら余裕だ」
そう言い残して、フリントが走り出した。
◇
「おい、デカブツ!」
フリントの声にオークが振り返る。
「まだ動けるのか。しぶとい奴だ」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
フリントが柱に向かって走り、オークが瓦礫を踏み越えながら追う。足を取られながらも、それでも追ってくる。
フリントが柱に縄を一周、二周と巻きつけ、端をこちらに投げた。ダリオが受け取る。
「合図したら引け!」
フリントが柱の向こう側に回り込み、オークが柱の前で立ち止まった。
「ここに誘い込んだつもりか。柱を壊して天井を落とす——単純な罠だな」
「単純で悪かったな。でもお前、壊さずにいられないだろ?」
「……何だと」
「退路を断つのも、床を抜くのも、全部『壊す』ことで解決してきた。目の前に柱があったら——我慢できないんじゃないのか」
オークの顔から笑みが消えた。
「……小僧」
「図星か」
「黙れ」
オークが拳を振り上げて柱を殴る。轟音とともにひびが広がり、柱が傾く。——まだ倒れない。
「もう一発だ」
腕を振り上げ——止まった。腕がぐにゃりと曲がっている。
「……は?」
オークが自分の腕を見ている。力が入らない。だらりと垂れ下がっている。
「なん……だ……これは……」
——エフェドリン。
C₁₀H₁₅NO。
交感神経を刺激し、骨格筋の収縮力を極限まで高める薬である。
だが副作用がある。
筋肉が収縮するたびに、薬効は増幅される。
殴れば殴るほど。
壊せば壊すほど。
筋繊維は自らの力に耐えかねて、内側から断裂していく。
「壊す力」が、自分を壊していたのだ。
フリントが息を呑んだ。
「……腕が、止まった?」
理由は分からない。でも——チャンスだ。
「——引け! 今だ、全員で引け!」
フリントが叫ぶ。ダリオが縄を握りしめ、トマとミラも掴む。全員で引いた。
柱が倒れ、天井が崩れ始める。
「——余裕とか言ったの誰だよ、間に合わねえ……!」
フリントの声が聞こえた。戻ってくる姿が見えない。
瓦礫がオークの上に、フリントがいた場所に降り注ぐ。轟音と土煙で何も見えなくなり、やがて煙が晴れていく。瓦礫の山ができていた。オークの姿は埋まって見えない。動く気配もない。
【鉄檻殺し】は——もう何も壊すことはなかった。
◇
「……フリント」
ダリオが瓦礫の山を見つめながら呟く。フリントがいた場所は完全に埋まっていた。駆け寄って石をどかそうとするが、両手で押してもびくともしない。
「くそ……!」
拳で瓦礫を叩くダリオ。トマが膝から崩れ落ちる。
「俺のせいだ……俺が足手まといだから……フリントさんが俺たちの代わりに……」
「違う」
ダリオが首を振った。
「あいつは——俺たちを守ったんだ」
ミラが声を出さずに泣いている。涙だけが流れて、両手を胸の前で握りしめている。
「……そこまで言われると、照れるな」
瓦礫の向こうから声がした。全員が振り返ると、フリントが立っていた。埃だらけで額から血が流れているが、笑っている。
「逃げるのは得意なんだ。言っただろ?」
「お前……! 生きてたのか!」
ダリオが駆け寄る。
「3年働いてたって言っただろ。どこが崩れてどこが残るか、分かってんだよ」
フリントが肩をすくめると、トマが泣きながら駆け寄ってくる。
「フリントさん……! よかった……本当に……!」
「おう。まあ、鎧は駄目になったけどな」
ひび割れた革鎧を見せて笑う。ミラも駆け寄ってきて、何も言わずにフリントの腕にしがみついている。離さないように。
ダリオが深く息を吐いた。
「……お前な」
「なんだよ」
「いや——」
言葉を探して、見つからないようだ。
「——ありがとう」
フリントが目を丸くして、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「……おう」
フリントが壁にもたれたまま、大きく息を吐いた。
「追跡者は3匹だったはずだ。息継ぎ無しと、鼻鳴らしと、今の鉄檻殺し」
指を折りながら数えて、それから天井を見上げる。
「全部倒した。もう来ねえ」
ダリオが頷く。
「この先を抜ければ、街道に出る。あとは歩くだけだ」
ダリオが先に歩き出した。トマとミラがついていく。
フリントが立ち上がりかけて、足を止めた。リリアの隣に来て、小声で言う。
「……なあ」
「?」
「さっきの話、みんなには言うなよ」
「……何の話?」
「俺が構造を分かってたとか、逃げ場を知ってたとか。——全部嘘だ」
フリントは前を向いたまま、歩き出したダリオたちの背中を見ている。
「本当は間に合わなかった。崩れる前に戻るなんて無理だった」
「死ぬ気で走って、どこでもいいから隙間に飛び込んで、運良く生きてた。それだけだ」
「……」
「でもな、あいつの腕が止まった瞬間——あれで少し時間ができた。お前の矢だろ。あの緑のやつ」
「……多分」
「多分かよ」
フリントが笑った。さっきまでの照れ隠しとは違う、静かな笑い方だった。
「まあいい。——助かった」
それだけ言って、フリントは歩き出した。ダリオたちを追いかけていく。
砦の出口が見えている。崩れかけた門の向こうに、夕暮れの光が差し込んでいる。
ダリオが先頭に立ち、フリントがミラの手を引き、トマがその後ろを歩く。
あと少し。
もう追ってくるものはいない。戦いは終わった。




