(NH₄)₂CO₃。(嗅ぎ塩)
走った。オークが追ってくる。さっきまでの余裕はない。本気だ。
「こっちだ!」
フリントが叫ぶ。砦の構造を知っている。抜け道があるはずだ。角を曲がる。通路を抜ける——
瓦礫の山が、行く手を塞いでいた。
「くそ——塞がれてる」
フリントの舌打ちが響く。背後で、足音が止まった。振り返るまでもない。通路の入り口を、巨大な影が埋め尽くしている。
◇
ダリオが剣を構える。
「お前たちは下がってろ」
「傭兵か。いい度胸だ」
オークが笑いながら一歩踏み込んでくる。ダリオが斬りかかった。全力の一撃——オークが片手で受け止める。素手で。
「弱い」
殴り飛ばされたダリオが壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「ダリオ!」
フリントが手槍を構えて突く。オークの脇腹に刺さる。浅い。
「痛くもない」
フリントも殴り飛ばされ、床に転がったまま起き上がれない。
◇
3人だけになった。トマが震えている。息が荒い。過呼吸だ。
「落ち着いて——」
声をかけようとした時、トマの目が白くなった。そのまま崩れ落ちる。
「トマ!」
ミラが駆け寄って揺すっている。反応がない。ポケットから嗅ぎ塩を取り出し、蓋を開けてトマの鼻の下に当てる。反応がない。気絶が深すぎる。普通の嗅ぎ塩じゃ起きない。
回復魔法を込めないと——
オークの足音が止まった。トマを見下ろしている。
「こいつか」
低い声。笑いが消えている。
「俺に恥をかかせたのは」
服の囮。あれでオークを騙した。トマの汗を吸った服で。
オークの手がトマに伸びる。その瞬間——ミラが立ち上がった。両手を広げて、トマの前に立ちはだかる。
声が出ない。でも、体が震えていても、そこを動かない。
「どけ」
ミラは動かない。
「——どけと言っている」
丸太のような腕が薙ぎ払われた。ミラの小さな体が宙を舞い、壁に叩きつけられる。
「ミラ!」
駆け寄ろうとして——影が落ちた。見上げると、オークがこちらを見下ろしている。手の中の瓶に目を落とす。
「何だこれは」
嗅ぎ塩。回復魔法を込めている途中だった。瓶が青白く輝いている。
「……いい匂いだ」
オークの鼻がひくつく。興味深そうに瓶を眺めている。
「吸うな!」
フリントが叫ぶ。床に倒れたまま、手を伸ばしている。オークが振り返った。
「……お前が止めるなら、余計に吸いたくなる」
笑みが深くなる。瓶を鼻に近づけ、深く——吸い込んだ。
一瞬、恍惚の表情が浮かぶ。次の瞬間——痙攣が始まった。
瓶が床に落ちる。オークが頭を抱えている。
「なん……だ……これ……」
鼻から血が流れ出した。
◇
——炭酸アンモニウム。
(NH₄)₂CO₃。
嗅ぎ塩の主成分である。
分解して発生するアンモニアガスが鼻腔を刺激し、強制的に覚醒させる。
かつてボクサーやアメフト選手が使用していた。
殴られても意識を保つための——興奮剤である。
競技での使用は、現在禁止されている。
本来なら気を失うべき危険な状態でも、脳が「まだ戦える」と錯覚してしまうからだ。
人間ですら、そうなる。
オークの過敏な嗅覚には——回復魔法で強化された刺激が、神経を焼いていた。
◇
オークが壁に頭を打ちつけている。
「止まれ……止まれ……!」
止まらない。脳に直接流れ込む情報が、処理能力を超えている。世界を誰よりも鮮明に嗅ぎ取れた鼻が——世界を誰よりも激しく焼いている。
オークが崩れ落ちた。痙攣が続いている。でも——もう立ち上がれない。
◇
ダリオが起き上がる。壁に手をついて、ふらつきながら。
「……何が起きた」
「嗅ぎ塩です。回復魔法を込めた——」
「そうか」
フリントが手槍を差し出す。
「……こっちのほうが苦しまねえ」
ダリオが受け取り、オークに近づく。痙攣は止まっている。でも、まだ息がある。
「……殺せ。早く……殺せ……」
オークの声はかすれていた。目は開いているが、何も見えていない。
ダリオは何も言わなかった。オークの胸の上に立ち、穂先を左胸に当てる。体重をかける。
【鼻鳴らし】は——もう何の匂いも嗅ぎ取ることはなかった。
◇
ダリオが手槍を返す。フリントは黙って受け取った。
トマを起こさないと。嗅ぎ塩はもうない。ミラが壁際からゆっくりと這い寄り、トマの手を握っている。腕に擦り傷、額から血が滲んでいる。それでもトマのそばを離れない。
「トマさん……起きて……」
反応がない。フリントが横から割り込んできた。
「そんなんじゃ起きねえよ」
トマの頬を平手で叩く。思い切り。
「——っ!」
トマが目を開ける。頬を押さえている。
「……ミラちゃん?」
「いや俺だが」
トマの顔が赤くなる。ミラがまだ手を握っていた。
◇
伝声管から声が響く。
「……ほう。2匹目も倒したか」
それから——笑い声。
「……いいな」
声の調子が変わっている。楽しそうだ。興奮している。
「息継ぎ無しと鼻鳴らしを殺した奴ら……俺が直々に狩ってやる。【鉄檻殺し】——俺が最後だ」
それきり、声は聞こえなくなった。
トマが呟いた。
「最後……こいつから逃げ切れば……帰れる」
震えている。でも自分に言い聞かせるように繰り返していた。
フリントが肩をすくめた。
「さっきより機嫌よさそうだな、あいつ」
がしゃん、と音がした。重い金属音。何かを持ち上げた音。巨大な武器を手に取ったのだと、直感で分かった。
地響きのような足音が聞こえ始めた。




