【鼻鳴らし】
逃げた。5人で通路を走る。後ろから、ゆっくりと足音が追ってくる。急いでいない。余裕がある。
「速くない……?」トマが振り返りながら言った。
「油断するな」ダリオが先頭を走りながら答える。「奴は追いかけっこを楽しんでる。疲れたところを狩るつもりだ」
◇
角を曲がった。壁の窪みに身を隠す。息を殺した。足音が近づいてくる。通り過ぎてくれ。通り過ぎてくれ——
足音が止まった。
「……そこにいるな」
ぐるる、と鼻を鳴らす音がした。
「小さいのが一匹。震えてる匂いがする」
ミラが息を呑んだ。オークの手が窪みに伸びてきた。太い指。汚れた爪。
「ミラ!」
ダリオが飛び出して剣を振る。オークは軽く身を引いて避け、ミラを掴もうとした手を引っ込めた。ダリオがミラを引っ張って後ろに下げる。
「いい反応だ」オークが笑う。「傭兵か。動きでわかる」
また一歩、近づいてくる。
「でも——お前の汗は、恐怖の匂いがするぞ」
◇
また逃げた。通路を走る。隠れる。見つかる。逃げる。隠れる。見つかる——何度繰り返しても同じだった。匂いで分かる。どこにいても、何をしても。
「……あそこにいるな」壁の向こうからオークの声が聞こえた。「男が3匹、女が2匹。小さいのは……一番奥か」
全部バレている。位置まで。
「正攻法じゃ無理だ」ダリオが小声で言った。
「不意打ちも無理だ。近づく前に臭いでバレる」フリントが首を振る。
「隠れても無駄、逃げても追いつかれる、戦っても勝てない——」トマが震える声で呟いた。「……詰んでる」
◇
オークの足音が近づいてくる。
「逃げないのか? まだ遊べるぞ」
笑いを含んだ声だった。遊んでいる。こちらが疲れるのを待っている。体力が切れたら——狩る。それまでは追いかけっこを楽しむつもりだ。
どうすればいい。どうすれば——
「……待て」フリントが立ち止まった。「匂いで追うんだろ?」
「ああ」
「なら——匂いを分ければいい」
ダリオの目が光った。「……囮か」
「そうだ。臭いの強いものを別の場所に置く。奴がそっちに行ってる間に、俺たちは反対方向へ逃げる」
「何を置く」
「服だ。汗を吸った服」
フリントがトマを見た。「農夫。あんたが一番汗をかいてる」
トマの顔が引きつる。「俺の……服?」
「脱げ。時間がない」
「で、でも——」
「死にたいのか」
トマが慌てて上着を脱いだ。汗でびっしょりだ。フリントがそれを受け取って、鼻を近づけた。
「……くせえ」
「悪かったな!」
「褒めてんだよ。これなら奴も騙される」
フリントが通路の奥に走っていく。しばらくして、手ぶらで戻ってきた。「置いてきた。行くぞ、反対方向だ」
◇
5人で走る。別の通路へ。後ろから、鼻を鳴らす音が聞こえた。
足音が——止まった。
「……ほう。一匹、離れたか?」
オークの声がした。足音が動き出す。こちらではない。トマの服の方へ。
「……効いてる」トマが信じられないという顔で呟いた。
「走れ。今のうちだ」
ダリオが先頭を走り、フリントが殿を務める。距離が開いていく。オークの足音が遠ざかっていく。角を曲がった。また曲がった。もう足音は聞こえない。
——やった。
「効いた……本当に効いた……!」トマが息を切らしながら笑った。「フリントさん、すごいですよ!」
「当然だ。伊達に逃げ回ってきてねえ」フリントが肩をすくめる。でも口元が緩んでいた。
「このまま行けば——」ダリオが前を見た。「橋まで逃げ切れる」
希望が見えた。逃げ切れる。生き残れる——
◇
ミラが転んだ。
石につまずいて、膝から崩れ落ちる。小さな悲鳴。膝を押さえている。
フリントが振り返った。ミラを抱き起こそうとして——手が止まった。血が出ていた。膝から、赤い血が。
「……まずい」フリントの顔から表情が消えた。「走れ。今すぐ——」
遅かった。
◇
遠くで、足音が止まった。沈黙。そして——こちらに向かってくる。さっきまでの余裕のある足音じゃない。速い。重い。
「……なるほど」声が響いた。近づいてくる。壁の向こうから。「服か。騙されたな」
足音がさらに速くなる。
「でも——血の匂いは誤魔化せない」
壁を曲がって、オークが姿を現した。笑っていない。
「騙したな」
目が変わっている。さっきまでの遊びの色が、消えていた。
「気に入った。——お前らから先に殺す」




