殺しのゲーム
それは——止まった心臓を、再び動かす薬だった。
——アドレナリン。
C₉H₁₃NO₃。
1900年、日本人の高峰譲吉と上中啓三が発見した。ウシの副腎から、世界で初めて結晶化に成功。心臓が止まった人間を蘇生させる薬であり、100年以上、世界中で命を救い続けてきた。
「生かすための薬」。
心肺蘇生に用いる副腎髄質ホルモン製剤——すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!
◇
オークの目が見開かれ、体が震えている。
「ついに……ついに俺は……」
笑った。心の底から、嬉しそうに。
「『熱い』ぞ……!」
——これは、その数時間前の話。
◇
街道を歩いていた。次の町まであと半日、日が暮れる前には着けるだろう。そう思っていた。
異変に気づいたのは森の中だった。静かすぎる——鳥の声も虫の音もせず、風が止まり、木々が息を潜めている。
嫌な予感がした。足を速め、走り出そうとしたその瞬間。
「——見ィつけた」
声は上から降ってきた。嫌な笑いを含んだ、ねっとりした声。
木の上から影が落ちてきた。巨大な体、緑がかった肌、獣のような目——オークだ。1匹じゃない。右にも左にも後ろにも、囲まれている。
鼓動が激しくなるのがわかる、足が震えた。逃げなきゃ——でも、どこに。
「——最終救護」
何か出さないと、何でもいい、武器になるものを。光が収束する——はずだった。何も起きない。手の中は空っぽのまま。
……そうだ。この回復魔法は、自分のためには使えない。
その瞬間——殴られた。頭に衝撃が走り、視界が白く弾けた。地面が近づいてくる。倒れる。受け身も取れない。意識が遠くなっていく。
◇
……目を開けた。
暗い、冷たい、硬い床。体を起こそうとして、頭がずきりと痛んだ。殴られた場所だ。血が固まっている。
周りを見た。鉄格子と松明の明かり、その向こうにオークが何匹も見える。檻の中だ——捕まったのだ。
オークたちがこちらを見ている。ゲラゲラと大声で笑いながら、何か言葉を投げかけてくる。聞き取れなかったのは幸いだった。私を見る目が、家畜を品定めするような目で……気持ち悪い。
……おかしい。
今まで戦ったモンスターは、殺意か本能で襲ってきた。だから分かりやすかった。殺される前に逃げる、それだけだった。でもオークは違う。
さっき、殺せたはずだ。囲まれていた。逃げ場はなかった。なのに——殺さなかった。殴って、気絶させて、運んで、檻に入れた。生かしてある。
……何のために?
オークたちが楽しそうに笑っている。何かを待っている。
……何を待っている?
分からない。分からないのが一番怖い。
◇
「起きたか」
人間の声だ。隣の檻に男がいた。鍛えられた体つきで傷だらけ——傭兵か何かだろうか。少しだけ安心した。戦える人がいる。
「……ここは」
声がかすれた。喉が渇いている。
「分からん。俺も気づいたらここにいた」
男が指差した。
「他にも何人かいる」
指の先に、檻がいくつも並んでいた。若い女がいた——まだ少女と言っていい年齢で、膝を抱えて俯いている。怯えているのが伝わってきて、胸が痛んだ。農夫らしき男は震えて歯をカチカチ鳴らしている。革鎧を着た男は壁にもたれて天井を睨んでいた。あの人も戦えるのだろうか——だとしたら、また少しだけ心強い。
みんな捕まったのだ。みんな私と同じだ。
◇
体を確認した。救急鞄がない。ローブもない。持ち物は全部奪われ、薄汚れた囚人服だけが残されている。
でも——最終救護は使える。口を封じない限り、ヒーラーから回復魔法は奪えない。
……いや、使えるか分からない。
この魔法はいつでも好きな時に使えるわけじゃない。どこかの世界のヒーラーと心が繋がった時だけ。「逃げたい」「助かりたい」——そんな気持ちだけでは繋がれない。さっきも自分を守ろうとして、何も出なかった。
今、私は誰かと繋がれるだろうか。
……分からない。
それに、相手の目的が分からない。殺すつもりならもう殺している。殺さないで生かしている理由がある。それが分からないうちに動いたら、何が起きるか分からない。
オークたちが笑っている。丸腰だと思っている。何もできないと思っている。きっと、人間なんて弱い獲物だと思っているのだろう。
……そう思われたままでいい。今は何もしない。いつか——繋がれる時が来るかもしれない。
◇
どれくらい経っただろう。
突然、声が響いた。檻の中からじゃない。壁から——伝声管だ。
「——聞こえるか、獲物ども」
低い声が響いた。楽しそうな——嬉しそうな響き。
ぞくりとした。獲物。私たちのことだ。
「これからゲームを始める」
2026年新章開始です!
1章2章のゴブリン、ゾンビ以来、オーソドックスなモンスターが出てなかったのでオーク回にしてみました。
さすがに「集団で襲ってくるのガトリング砲で倒すだけ」だけだと芋虫と変わらないな…と、人間並みに知能や文化があるモンスターなのでゲーム感覚で殺人ゲームをやっているおかしいやつらにしてしまいましたが、世間的にはもっとカジュアルに「オークが襲って来たぞ!」くらいの使い方ができるポジションみたいですね。
しまった、リリアさんの治療器具を考えるのもっと楽ができたのに!!!
いつもは3話目くらいでモンスターが出てくるところ、1話目から登場と変則的な章となりましたが
おつきあいいただけると幸いです。




