代償
数日後。町は落ち着きを取り戻していた。
広場で子供たちが遊んでいる。歌声が聞こえた。
「——狂わされた羽を、今は休めて」
「——悲しい蝶よ、おやすみなさい」
子守唄だ。でも、歌詞が違う。あの夜の後、オルフェが歌詞を変えたのだと聞いた。蝶を悼む歌詞を。子供たちはもう覚えている。
焼き栗屋のおじさんがまた威勢よく声を上げている。
「焼き栗、いかがですか!」
町は救われた。
◇
リリアは出発の準備をしていた。荷物をまとめる。銅インゴットを底に入れる。窓の外を見た。青い空。白い雲。平和な光景だった。
「お嬢さん」
ヨハンナさんが部屋に入ってきた。
「もう、行っちゃうのかい」
「……はい。長居しすぎました」
「そんなことないよ」
ヨハンナさんが微笑んだ。
「ありがとうね、お嬢さん」
「……」
「あなたがいなかったら、私たちは……」
ヨハンナさんの目が潤んでいた。
「あの吟遊詩人の子がね、子守唄の歌詞を変えてくれたんだよ」
「……聞きました」
「蝶を悼む歌詞。あの子も可哀想だったんだねえ、真冬に飛ばされて」
ヨハンナさんが窓の外を見た。子供たちの歌声が聞こえてくる。
「冬祭りでは必ず歌うよ。悲しい蝶のことを忘れないように。みんなで約束したんだ」
「……」
「あの歌がね、何百年も歌い継がれてきたように。これからも、ずっと」
「……お元気で」
リリアは小さく頭を下げた。ヨハンナさんがリリアの手を握った。温かい手だった。しわだらけで、骨ばっていて、でも温かい。
「あなたも、お元気でね」
◇
ヨハンナさんが布の袋を差し出した。
「これ、持っていきな」
袋の中を見た。焼き栗だった。
「皮は火起こしに最高だよ。旅に役立つからね」
「……ありがとうございます」
リリアは袋を受け取った。温かい。焼きたてだ。
◇
宿を出た。振り返ると、ヨハンナさんとハンスさんが手を振っていた。リリアも、小さく手を振った。
町を出ようとした時。
「リリアさん」
オルフェの声がした。
◇
振り返った。オルフェが立っていた。竪琴を背負っている。
「少し、話があるんです」
「……」
「歌、聴いてもらえますか」
◇
広場の隅。二人で座った。オルフェが竪琴を構えた。
「子守唄の歌詞、変えたんです」
「……聞きました」
「子供たちがもう覚えてくれた。冬祭りで歌うって」
オルフェが笑った。どこか寂しそうな笑顔だった。
「何百年も歌い継がれる歌に、自分の歌詞が入る。吟遊詩人として、最高の夢でした」
「……」
「でも——」
オルフェが弦に触れた。
「町で歌った時から、何か違和感があって。確かめたかったんです」
弦を弾いた。歌い始めた。
——リリアは、違和感に気づいた。
声が違う。上手い。技術はある。でも——あの声がない。天使の声がない。
オルフェが歌い終わった。
「……どうでしたか」
リリアは答えられなかった。
「……出ないんです」
オルフェが小さく言った。
「あの声が」
「……」
「もう一度、やってみます」
弦を弾いた。もう一度、歌い始めた。
——出ない。
上手い。技術は完璧だ。でも、あの声がない。普通の声。どこにでもいる、普通の吟遊詩人の声。
オルフェが竪琴を下ろした。しばらく黙っていた。もう一度、小さく口ずさんだ。
——出ない。
かつての自分の声をもう思い出せない。頭の中では鳴っている。でも、喉から出てこない。
「……そうですか」
オルフェが絞り出すように言った。
「やっぱり、そうですか」
◇
「僕の喉には、生まれつき……何かがあったんです」
オルフェが静かに話し始めた。
「何かは分からない。医者にも分からなかった。でも、それがあったから、あの声が出た」
オルフェがリリアを見た。
「あなたの回復魔法は、完璧だった。喉の炎症も、針のダメージも、全部治った」
「……」
「……全部、です」
オルフェの声が震えた。
「あの『何か』も、治してくれた」
◇
リリアは息を呑んだ。
「……知らなかった」
「分かってます」
オルフェが頷いた。
「あなたに悪意がないことは、分かってます。あなたは、僕を助けようとしてくれた。でも」
——喉の炎症:完治。呼吸機能:正常。針による損傷:なし。……治療、成功。
成功したのだ。何もかも。完璧に。
リリアの胸が締め付けられた。
オルフェの声が震えた。
「結果は、変わらない。僕は、あの声のために生きてきた。あの声が、僕の全てだった」
オルフェが空を見上げた。
「歌詞は残る。何百年も歌い継がれる。でも——この声では、もう歌えない」
皮肉だった。吟遊詩人として最高の夢が叶った瞬間に、声を失った。
沈黙が落ちた。リリアは何も言えなかった。何を言えばいいのか分からなかった。
◇
オルフェが立ち上がった。
「僕も、行きます。もう、ここにいる理由がない」
二人で町を出た。街道に出る。東と、西に、道が分かれる。
オルフェが東を向いた。元来た道。リリアは、西を向いた。これから行く道。
「……あなたのことを、讃える歌を作ると言いました」
オルフェが言った。
「撤回します。あなたがしたことを、歌にします。蝶を倒したこと。人々を救ったこと。そして——僕の声を奪ったこと」
リリアは何も言わなかった。言えなかった。
「……さようなら、リリアさん」
オルフェが歩き出した。東へ。元来た道へ。
追い越し追い越されは、もうしない。オルフェは東へ。リリアは西へ。二人の背中が離れていく。
◇
カラン、カラン……
音が聞こえた。振り返ると、ベルちゃんがいた。
「……見送りに来てくれたの」
ベルちゃんが近づいてきた。首のベルが鳴る。
——あの夜、村の男衆が直してくれたのだ。いびつな形になっている。音も少し変わっている。でも、ちゃんと鳴る。
リリアはベルちゃんの頭を撫でた。
◇
西へ歩き出した。
カラン、カラン。
後ろからベルの音がついてくる。リリアは荷物から焼き栗の袋を取り出した。皮を剥きながら歩く。
ほくほくして、甘い。ヨハンナさんの言葉を思い出した。
「皮は火起こしに最高だよ」
鬼皮を袋に戻した。大事に取っておこう。
◇
村外れの境界が見えた。ベルの音が止まった。
振り返った。ベルちゃんが立ち止まっている。ここから先は、自分の縄張りじゃないのだ。
「……ここまでなんだね」
リリアは戻った。袋の中の焼き栗をごそごそと探る。
カラン、カラン。
ベルちゃんが近づいてきた。鼻をひくひくさせている。エサがもらえると思ったのだろう。
「……食べる?」
栗を一つ取り出した。でも、そのままあげたら喉に詰まらせるかもしれない。指で割った。細かく、細かく。
手のひらに乗せて差し出す。ベルちゃんが柔らかい唇で、栗のかけらをもぐもぐと食べた。
「美味しい?」
もう一つ割って、あげた。ベルちゃんの尻尾が揺れている。嬉しいのだろう。
◇
リリアはベルちゃんの頭を撫でた。ふと、視線を落とした。
——前脚に、緑色の毛糸が巻かれていた。
手編みだ。丁寧に、ぐるぐると巻かれている。あの夜、脱臼を治した脚だ。
また怪我をしないように。冬の寒さから守るように。ヨハンナさんが編んでくれたのだろう。
「……大事にしてもらってるんだね」
ベルちゃんの大きな目がリリアを見ている。
「ありがとう。元気でね」
リリアはもう一度、頭を撫でた。
「ヨハンナさんによろしくね」
カラン。
ベルが小さく鳴った。返事をするみたいに。
◇
リリアは歩き出した。振り返らなかった。でも、しばらくの間、ベルちゃんがそこに立っているのが分かった。
やがて——
カラン、カラン……
ベルの音が遠ざかっていく。村の方へ戻っていく。音が小さくなる。小さくなる。
——聞こえなくなった。
また、一人だ。
◇
リリアは空を見上げた。青い空。白い雲。
綺麗だと思えなかった。
また、一人で歩き出した。




