Cu(原子番号29)
指先が冷たい金属に触れた。
銅のインゴット。
『最高の鉱山技師 リリア』
ディエゴ。鉄ヒゲ。ゴリゴリ。三人がくれた、旅立ちの餞別。
——これじゃない。これは武器じゃない。
でも、握りしめていた。
冷たい金属の感触が少しだけ心を落ち着かせた。
◇
泉の縁に手を伸ばした。
水を。何か、水を使えば——
銅インゴットを握ったまま。
手が滑った。
ぽちゃん。
銅インゴットが泉に落ちた。
◇
拾おうとした。
手を伸ばす。水面に指先が触れる。
——動かない。
針の毒がまだ体を蝕んでいる。指が思うように動かない。
銅インゴットが泉の底に沈んでいく。
三人の贈り物が遠ざかっていく。
◇
——待って。
水の色が違う。
銅インゴットの周りだけ、心なしか、色が違って見える。
淡い、エメラルドグリーン。
◇
——気のせいだ。
毒で目がおかしくなっているのかもしれない。
でも——
◇
ふと、思い出した。
ベルちゃん。
水桶が壊れて、たらいの冷たい水を飲めなかったベルちゃん。
あの時、どうした?
——火の魔法で、温めた。
◇
リリアは、震える手を泉に浸した。
火の魔法。ほんの少しだけ。
手のひらの周りの水が、ほんのり温かくなる。
◇
その瞬間——
泉の底で、銅インゴットが淡く光った。
◇
——反応している。
でも、それだけだった。インゴットの周りの色は、ほんの少し濃くなっただけ。
泉全体には広がらない。
◇
——足りない。
火の魔法だけじゃ、足りない。
◇
何か、他に——
リリアは考えた。
魔法で、水に力を与える方法。
◇
——聖水。
教会で作る、聖水。
あれは、水に回復魔法をかけて作る。
◇
リリアは、泉に向かって手をかざした。
回復魔法。
自分には効かない。でも、水には——
◇
光が溢れた。
過剰回復——制御できない力が、泉に流れ込む。
◇
泉の底で、銅インゴットが眩く輝いた。
◇
淡い、緑色の光。
インゴットの周りから広がっていく。
エメラルドグリーンの色が——泉全体に広がっていく。
◇
胸がざわついた。
この感覚。
知っている。
体の奥が熱くなる。誰かの記憶が流れ込んでくる、あの予兆だ。
雷を落とした時も。凍気を放った時も。鉄の嵐を降らせた時も。
——何かが来る。
◇
考えるな。
感じろ。
リリアは衝動に身を任せた。
最終救護——!
◇
それは、五千年の記憶だった。
銅イオン水。
銅。原子番号29。人類が最初に手にした金属のひとつ。
電気を通す。熱を伝える。貨幣になる。
神社の銅像。十円玉。街を走る電線。台所の鍋。人類の歴史と共にあった最も身近な金属。
だがそれだけではない。
「青い血の生き物」がいる。昆虫。甲殻類。軟体動物。彼らの血液は銅で酸素を運ぶ。だから青い。
そして——水に溶けた銅は細菌を殺す。真菌を殺す。古来より傷口の消毒に使われてきた。
◇
ネブライザー。
吸入療法専用の医療機器。薬液を霧状にして気道に届ける。
かつて呼吸器疾患は子供の命を容赦なく奪った。薬を飲めない幼子にも霧なら届く。息ができる。それだけで命が繋がる。
◇
光が収束した。
リリアの手の中に、見覚えのない器具が現れる。
小さな箱。そこから伸びる管。管の先には、霧を吹き出す口がついている。
どこかの世界のヒーラーの知識が流れ込んでくる。
リリアは何をすべきか分かっていた。
◇
管の先を泉の水に浸す。
箱の側面にある突起を押した。
低い振動音。箱が小刻みに震え始める。
しゅう……
管の先から、霧が立ち上った。
エメラルドグリーンの霧。泉の水面から、ゆらゆらと。
◇
最初に届いたのは——リリア自身だった。
霧を、吸い込んだ。
喉が——癒えていく。
(私は、自分を癒せない)
(でも——この道具を作ったのは、私じゃない)
(どこかの世界の、誰かのヒーラーが、この道具に想いを込めた)
(その想いが——私を癒してくれた)
喉の痛みが引いていく。
「……っ」
声が出た。
立ち上がる力は、まだない。でも、声は出る。
「……私は、私を癒せない」
呟いた。
「でも——」
◇
霧が立ち上っている。泉のそばでゆらゆらと。
でも——広がらない。風がないから。オルフェにも、他の人々にも、届かない。
——風。
リリアは目を見開いた。
風。私には——風がある。
あの、笑われた魔法。何の役にも立たないと言われた魔法。
でも——
手を、掲げた。
強風だと、粒子が散る。でも——そよ風なら。優しく、均一に、届けられる。
「——風よ」
そよ風が吹いた。
◇
エメラルドグリーンの霧が風に乗った。
広がっていく。町中に広がっていく。
——過剰回復。
銅イオン水は人体に有害。
でも過剰回復で即座に修復する。
毒と回復を同時に行う荒療治。
人々が息を吹き返した。
「……っ!」
「息が……息ができる……!」
「助かった……!」
次々と起き上がっていく。
オルフェも、目を開けた。
「リリア、さん……?」
「……大丈夫ですか」
「僕……生きてる……?」
「はい」
リリアは小さく笑った。
「生きてます」
◇
でも——蝶は、まだ暴れている。鱗粉と針が、剥がれ落ち続けている。
このままでは、また——
(待って)
リリアは蝶を見上げた。
(この蝶は——本当に敵なのか?)
(真冬に活動している。本来は眠っているはずなのに)
(針が剥がれ落ちている。本来なら、剥がれないはずの針が)
(この蝶は——何かに蝕まれて、無理やり起こされたんだ)
(眠りたかったはずなのに)
胸が痛んだ。
◇
霧がまだ立ち上っている。
そよ風が吹き続けている。
リリアの風魔法は、優しい風しか起こせない。でも、止め方を知らなかった。
エメラルドグリーンの霧がゆっくりと上空へ昇っていく。
町中に広がった霧がさらに高く。さらに高く。
——蝶を、包んだ。
◇
緑の霧が、蝶を覆っていく。
赤い月の光が——薄れていく。
血の色が、洗い流されていく。
◇
——銅イオンは、真菌を殺す。
蝶の体内に寄生していた真菌が死んでいく。蝶の代謝を狂わせていた真菌。蝶を暴れさせていた真菌。その真菌が浄化される。
蝶の羽が変わっていった。
禍々しい色が消えていく。本来の——美しい虹色に戻っていく。
歌に歌われた「災厄」ではなく。ただ美しい、一匹の蝶。
◇
——だが。
人間の血液は、鉄で酸素を運ぶ。
だから銅イオンは、副作用はあっても致命的ではない。
だが、青い血の生き物にとっては違う。
血液中の銅が、過剰な銅イオンに置き換わる。
酸素を運べなくなる。
息ができなくなる。
——猛毒なのだ。
◇
蝶は、静かに力を失っていった。
もがかない。暴れない。ゆっくりと羽ばたきが弱まる。
月光に照らされた虹色の羽がきらきらと輝いている。
美しかった。
本当に、美しかった。
リリアは目を逸らせなかった。
巨大な体がゆっくりと降りてくる。町の外れに静かに横たわる。
まるで——眠りに戻るように。
本来なら、春まで眠っているはずだった。その眠りに——ようやく、戻れた。
◇
あの器具の作動音がずっと鳴っていた。
しゅう、しゅう、しゅう……
それは——子守唄だった。
蝶を眠りに還す、子守唄。
蝶が動かなくなった瞬間——
最終救護の光が消えた。
同時に——器具が止まった。
静寂。
子守唄が終わった。
◇
リリアは空を見上げた。
月はまだ赤い。でも、もう怖くない。
歌は終わった。みんな、眠りについた。
泉から、銅インゴットを拾い上げた。消えていない。溶けていない。三人の贈り物は、まだここにある。
「……ありがとう」
小さく、呟いた。
ディエゴ。鉄ヒゲ。ゴリゴリ。三人の顔が浮かんだ。
◇
「リリアさん……」
オルフェがよろよろと立ち上がった。
「あなたが……助けてくれたんですね」
「……」
「すごい。本当に、すごい」
オルフェがリリアを見ていた。目が潤んでいる。
「ありがとうございます」
リリアは小さく頷いた。
空を見上げた。赤い月が見えた。
でも——もう、怖くない。
赤い月夜の子守唄。その意味がやっと分かった。
人々を癒す歌。蝶を眠りに還す歌。
恐ろしい歌じゃなかった。
優しい、子守唄だったのだ。
◇
町の外れに横たわる蝶を見た。
真冬に飛ぶ蝶。本来なら、ありえない。
あの蝶も——狂わされていたのだ。
体に寄生した真菌に。季節を忘れさせられ、暴れさせられ、人々に恐れられた。
暴れても、結局は冬の寒さで死ぬしかなかった。
悲しい生き物だった。
「……おやすみなさい」
小さく、呟いた。




