虹色の羽
眠れなかった。
ベッドに横になっても、目が冴えている。窓から月が見える。まだ、赤い。
◇
——虹色の羽が、降りてくる。
子守唄の一節が、頭から離れない。芋虫は倒した。繭は焼いた。終わったはずだ。
でも——羽。芋虫には、羽がない。
◇
「……考えすぎ」
呟いた。自分に言い聞かせるように。繭は焼いた。真っ黒に焦げていた。中まで火が通ったはずだ。
死んでいる。死んでいるはずだ。
◇
窓の外を見た。町は静かだった。復興作業で疲れた人々は、みんな眠っている。
平和だった。——なのに、胸騒ぎが止まらない。
◇
その時だった。遠くで、悲鳴が聞こえた。
「何だ、あれ!」
「空!空を見ろ!」
リリアは跳ね起きた。
◇
窓を開けた。夜風が入ってくる。冷たい。
——そして、何かが見えた。
◇
月明かりの中を、何かが飛んでいる。大きい。家よりも大きい。
ばさ。ばさ。ばさ。
羽ばたく音が聞こえる。ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
◇
月光がそれを照らした。
——息が、止まった。
蝶だった。巨大な、蝶だった。
◇
虹色の羽が、きらきらと輝いている。——でも、どこか禍々しい。
赤い月の光を浴びて、虹色の中に血の色が滲んでいた。美しかった。恐ろしいほど、美しかった。
◇
——虹色の羽が、降りてくる。
歌の意味が、分かった。芋虫じゃなかった。災厄は——蝶だったのだ。
◇
背筋が凍った。繭は、生きていた。あの炎でも、死んでいなかった。
——私たちは、間違えた。
◇
蝶が、町の上空に来た。羽ばたく。
きらきらと、何かが降ってきた。粉のようなもの。光の粒のようなもの。虹色に輝いて、美しい。——でも、赤い月明かりに染まって、どこか血のような色をしている。
——鱗粉だ。
◇
「息を止めて!口と鼻を塞いで!建物の中に!」
叫んだ。窓から身を乗り出して、叫んだ。声が夜空に響く。
でも——遅かった。
◇
広場で、人が倒れた。一人。二人。三人。
「息が……っ」
「喉が……焼ける……!」
「助け……」
次々と倒れていく。苦しそうに、喉を押さえている。
◇
——美しいものに、息を止めて。
歌の意味が、分かった。鱗粉を吸うな。息を止めろ。子守唄は、警告だったのだ。
◇
オルフェさん。広場に、オルフェさんがいた。演奏していたはずだ。
——オルフェさんは、無事だろうか。
◇
行かなきゃ。助けなきゃ。リリアは部屋を飛び出した。
◇
階段を駆け下りる。玄関を開ける。外に出た。
◇
町が、輝いていた。空気そのものが、虹色に染まっている。赤い月明かりが混ざって、世界が淡く血の色を帯びていた。
息をするだけで、喉に入ってきそうだった。
◇
フードを深くかぶった。ローブの襟元を引き上げて、口と鼻を覆った。布越しに、浅く息をする。
走った。広場に向かって、走った。
◇
鱗粉が降り続けている。肌に触れる。服に積もる。髪に絡まる。
吸い込んではいけない。絶対に。——でも、息が続かない。
◇
広場が見えた。人々が倒れている。苦しそうに、喉を押さえている。
その中に——オルフェさんがいた。泉のそばで、倒れている。
◇
「オルフェさん!」
叫んだ。——襟元が、ずれた。
口元が開いた、その瞬間。きらきらした何かが、喉に入り込んだ。
◇
痛い。喉の奥が、痛い。——刺さってる?
◇
鱗粉じゃない。目に見えないほど小さな——針だ。
◇
蝶を見上げた。暴れている。のたうっている。苦しそうに、羽を打ち付けている。その度に、きらきらした粉が——剥がれ落ちていく。
◇
——ああ。あの針は、本当は身を守るためのもの。それが、こんなふうに——
◇
考えている場合じゃなかった。喉が焼ける。息ができない。咳き込んだ。止まらない。咳が止まらない。
針が粘膜を刺して、腫れていく。気道が、塞がっていく。
◇
足が、動かなくなった。膝が折れた。地面に手をついた。
——体が、言うことを聞かない。
◇
這った。オルフェさんのところまで、這った。泉のそばまで、なんとか辿り着いた。
◇
「オルフェ……さん……」
声が掠れた。ほとんど、聞こえない。
オルフェさんが、薄く目を開けた。
「リリア……さ……」
声が途切れた。オルフェさんが咳き込んだ。止まらない。体を折り曲げて、咳き込み続けている。
——血が、こぼれた。
口元を押さえた手の隙間から、赤いものが滴り落ちる。喉が、焼けただれているのだ。
オルフェさんの目が、こちらを見た。涙が流れている。声は出ない。ただ、目だけが——助けて、と言っていた。
◇
助けなきゃ。治さなきゃ。——でも、体が動かない。
◇
——ヒーラーは、自分自身を癒せない。
知っていた。分かっていた。でも、こんな時に——
◇
鱗粉が、まだ降っている。きらきらと。美しく。赤い月に照らされて、雪のように、血のように。
その中に——目に見えない針が、混ざっている。
◇
蝶が、暴れている。羽を叩きつけるように飛んでいる。体をよじっている。その度に、鱗粉が剥がれ落ちる。針が剥がれ落ちる。
本来なら、あんなふうに飛ぶ生き物じゃない。あんなふうに、自分の体を傷つけながら飛ぶ生き物じゃない。
◇
周りを見た。人々が倒れている。十人。二十人。もっと。みんな、苦しそうに喉を押さえている。
助けを求める声が聞こえる。でも、誰も動けない。
◇
——私が、なんとかしないと。
でも——
◇
何ができる?
鋼鉄の守護神——この腕では構えられない。ハンドルを回す力もない。
火竜の吐息——あれが燃えて落ちてきたら。誰も延焼を止められない。
極寒の息吹——この手では支えられない。こぼしたら自分が凍る。
◇
声は出ない。足は動かない。指先が、かろうじて動く。それだけ。
——それだけ?
◇
いや。頭は動く。考えることはできる。
◇
何か。何かないか。この状況を打開できるものが。
◇
顔を動かした。視界の端に見慣れた革の色。救急鞄だ。口が開いて包帯が少しこぼれ出ている。
◇
リリアは、震える手を伸ばした。指先が革に触れた。
——何かある。——きっと、何かある。
祈るような気持ちで、中を探った。




