冬祭り
三日目の昼過ぎ。
街道を歩いていると、道端にロバがいた。灰色の毛並み。小柄だが頑丈そうな体つき。枯れ草を食べていた。
放し飼いだろうか。首に真鍮のベルがついている。
「あ、可愛い」
オルフェがしゃがみこんだ。ロバが顔を上げた。大きな目がオルフェを見ている。
「人懐っこいですね」
リリアも手を伸ばした。ロバの頭を撫でる。ふわふわの毛並み。温かい。
カラン。
ベルが鳴った。銅を含んだ真鍮の、澄んだ音。
◇
ロバが歩き出した。二人の前を歩いている。時々振り返る。ついてこいと言わんばかりに。
「……案内してくれるんですかね」
「そうみたいですね」
カラン、カラン。
ベルの音が街道に響く。二人旅が、少しだけ賑やかになった。
◇
丘を越えると、町が見えた。
「あれがファルムです」
オルフェが指差した。煉瓦造りの建物が並んでいる。中央に広場があって、噴水が見える。そこそこ大きな町だった。
吐く息が白い。冬の空気が頬を刺す。
そして——
「すごい人ですね」
町が賑わっていた。色とりどりの旗が翻っている。屋台が並んでいる。人々が行き交い、笑い声が聞こえる。
「冬祭りですね。ちょうど良かった」
オルフェが嬉しそうに言った。
「一年の終わりを祝うお祭りなんです」
◇
町に入った。人混みの中を歩く。
焚き火があちこちで焚かれている。人々がその周りで暖を取りながら、笑い合っている。
「焼き栗、いかがですか!」
威勢のいい声がした。屋台のおじさんが大きな鉄鍋で栗を炒っている。香ばしい匂いが漂ってくる。
「今年は良い出来でな!甘いぞ!」
「……いくらですか」
「お祭り価格だ、一袋銅貨三枚!」
リリアは銅貨を払って、紙袋を受け取った。熱い。かじかんだ手に温かさが染みる。
「あ、嬢ちゃん」
おじさんが呼び止めた。
「皮は捨てないでおくれよ」
「……皮?」
「鬼皮だよ。宿に持っていきな。喜ばれるから」
リリアは首を傾げたが、頷いた。
◇
オルフェに半分渡す。
「ありがとう、リリアさん」
熱々の栗を剥いて、口に入れた。甘い。ほくほくして、香ばしい。
「……美味しい」
「でしょう?冬はやっぱり焼き栗ですよね」
オルフェも嬉しそうに頬張っている。
鬼皮は紙袋の中に残しておいた。
◇
宿を取った。小さな宿だった。老夫婦が二人で切り盛りしている。
「いらっしゃい。旅のお方かね」
穏やかな声で出迎えてくれた。白髪のおばあさんだ。
「はい。冬祭りを見に来ました」
オルフェが答える。
「そうかい、そうかい。良い時に来たねえ」
おじいさんが頷いた。
「今年は特に賑やかだ」
「私はヨハンナ。こっちは夫のハンス。よろしくね」
ヨハンナさんが微笑んだ。
◇
カラン。
外でベルの音がした。
ヨハンナさんが窓の外を見た。
「あら、ベルちゃん。また泊まり客を連れてきてくれたのかい」
「……ベルちゃん?」
「うちのロバだよ。道端で草を食べてることが多くてねえ。たまに旅人をここまで案内してくれるんだ」
ヨハンナさんが嬉しそうに笑った。
「今日は二人もお客さんを連れてきてくれた。えらいねえ」
◇
「ご褒美に、ぬるま湯をあげようねえ。おーい、ハンス」
ヨハンナさんが奥に声をかけた。
「はいはい」
ハンスさんが薬缶を持って出てきた。
リリアはついていった。
裏庭に水桶があった。ハンスさんが薬缶のお湯を注いでいる。
「冬はねえ、冷たい水だと飲んでくれないんだよ」
ヨハンナさんが言った。
ベルちゃんが桶に顔を突っ込んだ。ごくごくと音を立てて飲んでいる。
「ロバさんも、寒いのは苦手なんですか」
「そうだねえ。砂漠の生き物だから」
ハンスさんがベルちゃんの首を撫でた。
「だから、ぬるま湯が好きなんだ。ねえ、ベルちゃん」
カラン。
ベルが揺れた。
◇
部屋に案内された。小さいが、清潔な部屋だった。窓際に薪ストーブがある。赤々と燃えていて、温かい。
◇
部屋で残りの栗を食べた。剥いた鬼皮が紙袋に溜まっていく。屋台のおじさんに「宿に持っていきな」と言われたけど、何に使うのだろう。
「……やっぱり捨てようかな」
ゴミ箱に手を伸ばした時。
「あら、待っておくれ」
ヨハンナさんが入ってきた。
「それ、こっちにおくれ」
「……これですか?」
「ああ。捨てちゃもったいない」
ヨハンナさんはストーブの横に置いてある小さな籠を指差した。
「そこに入れておくれ」
リリアは言われた通りに鬼皮を籠に入れた。
◇
夕方。また町に出た。
広場に人が集まり始めている。夜の催しがあるらしい。
「リリアさん」
オルフェがふと言った。
「僕、今夜広場で歌うんです」
「……そうなんですか」
「良かったら、聴きに来てください」
オルフェが笑った。
「リリアさんの冒険も、いつか歌にしたいな」
「……私の?」
「ええ。馬を治してあげたこととか、旅の途中で出会ったこととか」
「……大したことは、していません」
「そんなことないですよ」
オルフェが空を見上げた。夕焼けが空を赤く染めている。
「良い歌になると思うんだけどな」
◇
夜になった。広場に人が集まっていた。
松明が焚かれ、提灯が吊るされ、明るい。
中央に大きな噴水がある。「ファルムの泉」と呼ばれているらしい。澄んだ水が炎の光を反射してきらきら光っている。
その隣に——巨大な藁人形が立っていた。「冬男」と呼ばれているらしい。高さは人の背丈の五倍はある。藁と木で編まれた、不気味な人型。冬至の夜に燃やして、厳しい冬を追い払う。古い風習だという。
まだ火はついていない。祭りのクライマックスで点火するのだ。
屋台が並んでいる。焼き栗。焼きりんご。温かいスープ。人々が笑っている。
舞台の上にオルフェが立った。竪琴を構える。
「——今宵は、冬祭りを祝って」
澄んだ声が広場に響いた。
「古い英雄の歌を、お届けしましょう」
弦が鳴った。そして——歌が始まった。
◇
やっぱり、凄かった。天使の声。
人々が聴き入っている。誰も、一言も喋らない。
歌が終わると、拍手が起きた。歓声が上がった。
「もう一曲!」
「アンコール!」
オルフェが微笑んだ。
「では——」
少し、間を置いた。
「この地方に伝わる、古い歌を」
弦を弾いた。不協和音に近い、不安を煽るような響き。
リリアは息を呑んだ。
◇
「——赤い月夜に、目を閉じなさい」
あの歌だ。
「——窓を開けては、いけないよ」
焚き火の夜に聴いた、あの歌。
「——虹色の羽が、降りてくる」
「——美しいものに、息を止めて」
◇
美しかった。天使の声で歌われる、恐ろしい歌詞。美しくて、怖かった。
◇
歌が終わった。一瞬、静寂が落ちた。
若者たちは少し戸惑ったような顔をしていた。知らない歌だったのだろう。
でも——老人たちは違う顔をしていた。青ざめている。震えている者もいた。
◇
「さあ、クライマックスだ!」
司会の男が叫んだ。
「冬男を燃やすぞ!」
歓声が上がった。
◇
松明を持った男たちが、藁人形に近づいた。
「厳しい冬よ、去れ!」
「春を呼べ!」
掛け声とともに、松明が突き立てられた。
◇
炎が藁を舐めた。一瞬——そして、燃え上がった。
轟音を立てて、炎が噴き上がる。藁人形全体が火に包まれた。炎の柱が夜空に伸びていく。高く。高く。天まで届きそうなほど高く。
熱波が広場を襲った。離れていても肌が熱い。
「おおお!」
歓声が上がった。火の粉が舞い上がる。星のように散っていく。
壮観だった。美しかった。
◇
——この熱が。
リリアはふと思った。
——この光が、どこかに届いてしまったら。
本来、この季節にいないはずの何かを。冬眠しているはずの何かを。起こしてしまったら——
「……」
首を振った。考えすぎだ。
◇
宿に戻った。部屋に入ると、ストーブの火が弱まっていた。
ヨハンナさんが入ってきた。
「ああ、冷えてきたねえ」
籠から、鬼皮を取り出した。ストーブの蓋を開けて、鬼皮を火の中に入れる。
ぱちり。青い炎がふわりと上がった。
香ばしい香りが部屋に広がる。栗の、甘い匂い。
「……綺麗」
リリアは思わず呟いた。
ヨハンナさんが微笑んだ。
「栗の皮はね、山の神様がくれた最後のご馳走なんだよ」
「……最後の?」
「実を食べて、皮で暖を取る。一粒の栗を、二度いただく」
青い炎がゆらゆらと揺れている。
「昔の人は、何も無駄にしなかった。だから、山の神様も恵みをくださった」
暖かさが部屋に満ちていく。
「……良い習慣ですね」
「そうだろう?」
ハンスさんが部屋に入ってきた。窓の外を見ている。
「……ヨハンナ」
「分かってるよ」
ヨハンナさんも窓の外を見た。その顔が少し曇った。
◇
「……あの歌を聴くと、今でも怖くなるんだよ」
ヨハンナさんがぽつりと言った。
「……子守唄、ですか」
「ああ。子供の頃、おばあちゃんに聞かされたんだ」
ヨハンナさんの声が少し震えていた。
「赤い月の夜には、窓を閉めろ。外を見るな。朝まで眠れって」
「……」
「迷信だって言われる。若い子たちは笑う」
ヨハンナさんが小さく溜息をついた。
「虹色の羽なんて見たことない、ってね」
「……俺たちの世代は、みんな知ってるんだがな」
ハンスさんが静かに言った。
「子供の頃、親に言われたもんだ。赤い月の夜は、外に出るなって」
「……」
「でもね——」
ヨハンナさんが窓の外を見た。
「——月が赤いんだよ」
◇
リリアは窓から空を見た。息が止まった。
◇
赤かった。血のように、赤かった。
一昨日の夜より。昨日の夜より。
月が——真っ赤だった。
◇
町が静まり返った。さっきまでの賑わいが嘘のように消えた。
人々が空を見上げている。誰も、何も言わない。
◇
何かが来る。そう思った。
◇
——何も起きなかった。
◇
一分。五分。十分。
月は赤いまま。でも、何も起きない。
◇
「……なんだ」
誰かが言った。
「迷信じゃないか」
笑い声がぽつぽつと起きた。
「ビックリさせやがって」
「古い歌に惑わされるなんて」
「さ、続きだ続き!飲み直そうぜ!」
人々がまた動き始めた。
◇
リリアは窓際に立っていた。ヨハンナさんはまだ震えていた。
「……大丈夫ですか」
「……ああ、大丈夫だよ」
ヨハンナさんが無理に笑った。
「やっぱり、迷信だったんだねえ」
「……」
「馬鹿な婆さんだよ、私は」
ヨハンナさんがカーテンを閉めた。
「さ、もう寝よう。明日も祭りは続くからね」
◇
リリアは自分の部屋に戻った。窓から、空を見た。
月はまだ赤い。でも、何も起きなかった。
「……迷信、か」
呟いた。そうかもしれない。
古い歌だ。何百年も前の歌だ。昔の人は月が赤くなるだけで怯えたのかもしれない。
それに——虫が目を覚ますはずがない。真冬だ。虹色の羽を持つ何かが、この季節に現れるはずがない。
だから、迷信なのだ。
◇
リリアはベッドに横になった。久しぶりの、柔らかい寝床。地面より、ずっと心地いい。
ストーブの温かさが部屋を満たしている。鬼皮の、甘い香りがまだ残っている。
目を閉じた。
——虹色の羽が、降りてくる。
——美しいものに、息を止めて。
歌の一節が頭の中で響いた。でも、何も起きなかった。何も——
◇
眠りに落ちた。
◇
真夜中。悲鳴で目が覚めた。
ほのぼのパートからの不穏なヒキ。
次回、ひさしぶりにアイツが大活躍します!




