三十年かけてもできなかったこと
朝日が、窓から差し込んでいた。
リリアは目を開けた。一瞬、ここがどこか分からなかった。見慣れない天井。見慣れない壁。でも、すぐに思い出した。鉱山の詰所。昨日、泊めてもらった部屋だ。
久しぶりに、ぐっすり眠れた。
窓の外を見る。青い海が光っている。朝なのに、もう暖かい空気が流れ込んでくる。鉱山の町なのにまるで常夏のリゾート地みたいだ。
棚の小物が朝日に照らされていた。今はリリアの他に誰も使わない部屋なのに、かつて弟子たちがいた頃の、にぎやかだった時代の空気が残っている気がした。
リリアは、ベッドから起き上がった。
シーツを剥がす。枕カバーも外す。
たった一泊だけど、使ったものは綺麗にして返す。当たり前のことだ。リリアは、こういうところはしっかりしている。どんなに疲れていても、部屋を散らかしたまま出ていくことはしない。
シーツと枕カバーを抱えて、部屋を出た。
廊下を歩く。詰所の裏手に洗濯場があるはずだ。昨日、ディエゴが教えてくれた。
声が聞こえてきた。
「おお、嬢ちゃん。早いな」
鉄ヒゲだった。ゴリゴリとディエゴも一緒にいる。三人とも、もう起きていた。鉱夫は朝が早いのだ。
「シーツを洗おうと思って……」
リリアは、抱えているシーツを見せた。
ゴリゴリが目を丸くした。
「シーツ?一泊しただけだろ? 洗わなくていいぜ」
「どうせもう使う人もいねえ部屋だ」
ディエゴも頷いた。
「……気にするな」
「でも、使ったものは綺麗にしないと……」
リリアは首を振った。
ふと気づいた。
三人はそれぞれの部屋から出てきた様子だった。でも、誰もシーツを持っていない。
「あの……皆さんは、シーツ……」
「シーツ?」
鉄ヒゲが首を傾げた。
「……いつ替えたっけ」
ゴリゴリも首を傾げた。
「さあ……」
ディエゴは黙っている。
三人が顔を見合わせる。
男所帯だ。しかも、閉山間際。弟子たちが独立してから、身の回りのことに気を配る余裕がなくなっていたのだろう。シーツを替える習慣も、いつの間にかなくなっていたらしい。
「……私、洗いますよ」
リリアは言った。
「いや、嬢ちゃんにそんなこと……」
鉄ヒゲが慌てて手を振った。
「お世話になりましたから。それに、洗濯は得意です」
「でもよ……」
ゴリゴリも困った顔をしている。
「お願いします」
リリアは頭を下げた。三人は再度、顔を見合わせた。
ディエゴの方を見て、鉄ヒゲとゴリゴリが無言でうなづく。
「……すまんな」
ディエゴがぼそりと言った。
三人の部屋を回って、シーツと枕カバーを集める。
どれも、くたびれていた。何度も洗って、生地が薄くなっている。でも、破れてはいない。丁寧に使われてきた布だ。三十年、この詰所で使われてきたのだろう。
全部抱えるとかなりの量になった。重い。でも嫌じゃない。
洗濯場は詰所の裏手にあった。大きなたらいと井戸がある。
井戸から水を汲む。冷たい。たらいに張って、シーツを浸す。石鹸をつけてゴシゴシと擦る。
汗と埃の匂いが少しずつ落ちていく。水が濁っていく。何度もすすいで、絞って、また洗う。
黙々と手を動かす。こういう作業は嫌いじゃない。無心になれる。それに、誰かの役に立てる。
小さなことだけど、確かに役に立てる。
洗い終わったシーツを物干し竿に広げた。
海風が吹いている。太陽が、もう高く昇っている。眩しい。暑い。汗が額を流れる。
シーツが風にはためいた。白い布が青い空に映える。
「……これなら、お昼には乾きそう」
鉱山の町なのにこの天気だ。湿気も少ない。海風が布を乾かしてくれる。まるで南国のリゾート地みたいだ。不思議な場所だと改めて思った。
「嬢ちゃん、終わったか?」
鉄ヒゲの声がした。振り向くと三人が立っていた。
「はい、干しました」
「すまねえな、手間かけて」
ゴリゴリが頭を掻いた。
「……ありがとう」
ディエゴが短く言った。
「いえ、これくらい……」
「よし、じゃあ鉱山に行くか」
鉄ヒゲがにやりと笑った。
「嬢ちゃんに見せたいもんがある」
「え……でも、私、もう出発しないと……」
リリアは戸惑った。ノイエンブルクへの紹介状がある。早く次の街へ行かなければ。
「まあまあ、そう急ぐなって」
鉄ヒゲが言った。
「シーツが乾くまで待たなきゃならねえだろ?」
「それに、せっかくだから見ていけ」
ゴリゴリも言った。
「……嬢ちゃんが見たいなら、だが」
ディエゴがぼそりと言った。
リリアは三人を見た。
三人とも笑っている。無愛想なディエゴも少しだけ口元が緩んでいる。
「……はい!」
リリアには、断る理由が思いつけるわけがなかった。
坑道の入り口は暗かった。山肌にぽっかりと開いた穴。
中は真っ暗で何も見えない。冷たい空気が奥から流れてくる。外の暑さが嘘のようだ。
ディエゴが松明を手に取った。
「これを使え……」
「あ、待ってください」
リリアは手をかざした。
小さな光がふわりと浮かんだ。白い光。温かい光。火ではない。魔法の光だ。
三人が目を丸くした。
「……何だ、こりゃ」
鉄ヒゲが光を見つめた。
「灯りの魔法です。火を使わないので……」
「火を使わねえのか」
ゴリゴリが感心したように言った。
「こいつは助かる。鉱山で火は危ねえからな」
「ガスに引火したら終わりだ」
鉄ヒゲが頷いた。
ディエゴは黙って松明を置いた。
「……ありがたい」
短くそう言った。
リリアは戸惑った。こんな魔法が役に立つなんて。子供が最初に習う、初歩的な魔法だ。戦闘では何の役にも立たない。敵を倒せない。だから、いらないと言われた。
でも三人は喜んでいる。不思議な気持ちだ。
坑道を進む。リリアの灯りが周囲を照らしている。壁には銅鉱石が光っていた。茶色と緑が混じった、独特の色。精錬すれば、部屋にあった飾りのような美しい銅になるのだろう。
「ここで銅を掘ってる」
ディエゴが言った。
「三十年、ずっとここで掘ってきた」
「三十年……」
「最初はもっと大勢いた。弟子も何人も取った。でも鉱脈が尽きてきて、みんな独立していった」
鉄ヒゲが続けた。
「今は俺たち三人だけだ。最後まで掘り尽くすつもりでな」
「鉱夫の意地ってやつだ」
ゴリゴリがにやりと笑った。
リリアは壁の銅鉱石を見た。三十年分の歴史が、この壁に刻まれている。
さらに奥へ進むと空気が変わった。淀んでいる。重い。息苦しい。
「この先、ガス溜まりがあるな」
鉄ヒゲが足を止めた。
「換気しないと危ない」
ゴリゴリも足を止めた。
「一度戻るか……」
ディエゴが言った。
「あの……」
リリアは手を挙げた。
「風の魔法、使えますけど……」
「風?」
三人がリリアを見た。リリアは手をかざして目を閉じ、詠唱をする。
ふわりと風が起きた。淀んだ空気が動き始める。奥から新鮮な空気が流れ込んでくる。重かった空気が、少しずつ軽くなっていく。
「おお……」
鉄ヒゲが目を丸くした。
「ガスが散っていく……」
「すげえ……」
ゴリゴリも驚いている。
「これなら、奥まで行ける」
ディエゴが言った。
リリアはまた戸惑った。こんな魔法が。子供でも使える初歩の初歩。戦闘では敵を吹き飛ばすこともできない。だから、いらないと言われた。
でも三人はこんなにも喜んでくれている。
キャスターと比べてあまりに拙い、私の魔法に。
奥へ進んで広い場所に出た。
休憩場所らしい。岩を削って作った椅子がある。三人とリリアは腰を下ろした。
鉄ヒゲが、腰から水筒を外した。
「ふう、疲れた」
蓋を開けて一口飲む。
「……冷たいな。まあ、仕方ねえか」
「温めましょうか?」
リリアは言った。
「温める?」
鉄ヒゲが首を傾げた。
リリアは鉄ヒゲの水筒に手をかざし、目を閉じて集中する。魔力が熱に変換されていく。火属性魔法の初歩中の初歩だ。ここからさらに、変換された熱を、どう高めて敵にぶつけるかイメージできないと、戦場では全く使い物にならない。
だが、ここにはモンスターも、討伐対象の山賊などもいない。争いとは縁が無い平和そのものな坑道で、じんわりと熱が伝わっていく。
「……おお」
鉄ヒゲが水筒を持ち直した。
「温かい。温かいぞ」
「俺のも頼む」
ゴリゴリが水筒を差し出した。
リリアがゴリゴリの水筒にも手をかざす。でも、鉄ヒゲの時よりも、少し温度を下げた。昨日の夕食を思い出したのだ。鉄ヒゲは熱いのが好き。ゴリゴリは、熱いのが苦手。
「……おお、ちょうどいい」
ゴリゴリが驚いた顔をした。
「熱すぎねえ。嬢ちゃん、分かってるな」
「夕べのシチューの時に……」
「覚えてたのか」
ディエゴが水筒を差し出した。
リリアはディエゴの水筒も温めた。鉄ヒゲとゴリゴリの中間くらいの温度にした。
「……ありがたい」
ディエゴが短く言った。
三人とも温かい飲み物を飲んでいる。湯気が立っている。坑道の冷たい空気の中で、白い息が見える。
「地下で飲む、温かい飲み物は格別だな」
鉄ヒゲがにやりと笑った。
「久しぶりだ、坑道で温かいもん飲むのは」
ゴリゴリも頷いている。
「ああ、最高だ……」
ディエゴが懐かしそうな目で呟いた。賑やかだった頃は、休憩の時間に合わせて温かい飲み物を地上から運んできてくれる弟子もいたのだろう。今はもう、三人だけだ。誰も持ってきてはくれない。だから、冷たいまま飲むのが当たり前になっていた。
リリアは自分の水筒を持っていなかった。でも、三人が喜んでくれているのが嬉しかった。
ディエゴが自分の水筒をリリアに差し出した。
一口飲む。
水を温めただけの、ただの白湯のはずなのにとても美味しい。
リリアの灯りの魔法が、三人の水筒から立ち上る白い湯気で拡散する。小休憩が終わり、湯気が立ち昇らなくなるまでのほんの少しの間、こころなしか四人の周りが少し明るくなったように感じた。
「あの……」
リリアは言った。
「これ、子供が最初に習うような……初歩的な魔法で……」
三人がリリアを見た。
「戦闘パーティーでは、何の役にも立たないって言われて……攻撃力がないから、敵を倒せないから……」
声が小さくなっていく。
「……戦闘パーティー?」
ディエゴが首を傾げた。
「俺たちゃ鉱山にいるからな」
鉄ヒゲが言った。
「魔物討伐なんて縁がねえ」
「魔法学校を出たキャスター様が、鉱夫になることもねえし」
ゴリゴリが続けた。
「だから、魔法使いがどうとかよく分からん」
鉄ヒゲが腕を組んだ。
「だが、一つ言えることがある」
ディエゴがリリアを見た。
「火を使わない灯り。ガスを散らす風。飲み物を温める」
「どれも、鉱山じゃ最高の技術だ」
「ああ、嬢ちゃんは立派な鉱山技術者だぜ」
鉄ヒゲが言った。
「俺たちが三十年かけても出来なかったことを、嬢ちゃんは一瞬でやってのけた」
ゴリゴリが頷いた。
「戦闘がどうとか知らねえが、俺たちの世界じゃ、嬢ちゃんは一流だ」
「……ああ。一流だ。間違いなく。」
ディエゴが静かに言った。
リリアは言葉が出なかった。
一流。
そんなことを言われたのは初めてだ。
いつも、役立たず。
いつも、邪魔者。
いつも、追い出される。
でもこの人たちは違う。
戦闘の世界を知らない。魔法使いの序列も知らない。だから先入観がない。純粋に、自分たちの仕事に役立つかどうかで見てくれる。
そして「一流」だと言ってくれた。こんな落ちこぼれの自分の魔法を、必要としてくれる人がいる。
自分の力で誰かの役に立てる。涙がにじんだ。
「……ありがとう……ございます……」
声が震えた。
「泣くなって、嬢ちゃん」
鉄ヒゲが笑った。
「本当のことを言っただけだ」
ゴリゴリも笑った。
ディエゴは黙っていた。でも目が優しかった。
小休止を終え、さらに奥へ進む。
暖かい飲み物のおかげか3人の足取りが軽くなった気がする。
「見せたいもんってのは、これだ」
鉄ヒゲが壁を指さした。
銅鉱石が壁一面に光っていた。茶色と緑と、金色が混じっている。灯りの魔法に照らされて、きらきらと輝いている。
「最後の銅鉱脈だ」
ディエゴが言った。
「これを掘り尽くしたら、閉山だ」
「綺麗……」
リリアは壁に触れた。冷たい。でも、光っている。
「三十年、この鉱山で掘ってきた」
鉄ヒゲが言った。
「最後の鉱脈を、最後まで掘り尽くす。それが、俺たちの誇りだ」
「鉱夫の意地ってやつだな」
ゴリゴリが笑った。
ディエゴは黙って壁を見ていた。三十年分の思いが、その目に宿っている気がした。
リリアは三人を見た。誇りを持って仕事をしている。最後までやり遂げようとしている。
かっこいいと思った。
坑道を出ると夕日が眩しかった。
いつの間にか、こんなに時間が経っていたのか。海が、オレンジ色に染まっている。空も、赤く焼けている。
風が吹いた。
物干し竿を見るとシーツが揺れていた。朝、干したシーツだ。
手で触ってみる。乾いている。ふわふわだ。太陽と海風が、すっかり乾かしてくれた。
「乾いたか」
ディエゴが言った。
「はい。取り込みますね」
リリアはシーツを一枚ずつ外していった。丁寧に畳む。三人分と、自分の分。
「皆さんのお部屋を整えてきますね」
「いや、そこまでしなくても……」
鉄ヒゲが言いかけた。でも、リリアは首を振った。
「すぐ終わりますから」
三人の部屋を回ってシーツと枕カバーをセットする。綺麗なシーツ。太陽の匂いがする。きちんと整ったベッドを見て、リリアは少し満足げな表情をする。
食堂に戻ると三人がベッドを見に行っていたらしい。戻ってきた鉄ヒゲが、大げさに言った。
「おお、ありゃあ王都のホテルみたいだ」
「泊まったことあるのか」
ゴリゴリが聞いた。
鉄ヒゲはにやりと笑った。
「一山当てた夢を見た時に、何度でもな」
ゴリゴリが鼻で笑った。
「夢の中でしか泊まれねえのか」
「うるせえ、お前もだろ」
「俺は夢の中でも安宿だ。堅実だからな」
「それは夢がねえって言うんだ」
二人が言い合う。ディエゴは黙っているが、目が笑っている。
三十年、三人で鉱山を掘ってきた。一山当てる夢を見ながら。でも、大当たりは一度もなかったのだろう。それでも三人は笑っている。
リリアも少し笑った。小さなことだ。でも、役に立てた。鉱山技術者として。それから、こういうことでも。
「……嬢ちゃん」
ディエゴが、リリアを見た。
「明日も、手伝ってくれるか」
「え……」
「鉱山の奥、まだ見せてない場所がある。嬢ちゃんの灯りと風があれば、もっと奥まで行ける」
鉄ヒゲが頷いた。
「親方の言う通りだ。嬢ちゃんがいてくれると、助かる」
「もう少しいてくれねえか」
ゴリゴリも言った。
リリアは、三人を見た。
ノイエンブルクへの紹介状がある。早く次の街へ行かなければ。仕事を探さなければ。
でも、この人たちが、必要としてくれている。自分の魔法を、役に立ててくれる場所がある。
リリアは三人に、自分がヒーラーであることを言えていなかった。『冒険者』としか名乗っていない。回復魔法を使うこと以外、何も求められていなかったあの頃とは違う。灯りを灯して、風を起こして、飲み物を温めて。それだけで、「一流だ」と言ってもらえた。
自分の目が潤むのがわかる。
「……はい! もう少し、お世話になります」
鉄ヒゲとゴリゴリが笑った。ディエゴも、少しだけ口元が緩んだ。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。星が瞬き始めている。明日も、この人たちと一緒に鉱山に行ける。明日も、役に立てる。リリアは嬉しかった。
でも……
リリアは、まだ知らなかった。明日、何が起きるのかを。
おじさん話がずっと続いていますが、いよいよ次回はいつものような話に戻ります。
「常夏ビーチと言えば」な、きっとみなさんも大好きなあのシーンも出てきますよ。
12/16 20時ごろ公開予定です。




