生命爆ぜる甘露
石の内側で、何かが動いている。
「伏せてください」
手を当てたまま、振り向かずに声を絞り出した。
「今すぐ」
◇
ゲルトがリリアの腕を掴んで引いた。
「来い」
ヴェルナーが転がりながら壁際に距離を取る。
リリアは踏みとどまった。目の前に、テアの背中があった。
「テアさんは——」
「いいから、来い」
◇◇◇
ニトログリセリン——
その分子は、バネを極限まで圧縮して細い糸一本で止めているような構造をしている。
窒素と酸素の結合。極めて高エネルギーで、極めて不安定。
熱が、その糸に触れた。
◆
0.000001秒。
分子を繋ぎ止めていた結合が切れる。
原子たちが、より安定した形を求めて一斉に再結合を始める。
窒素は窒素と。水素は酸素と。炭素は酸素と。
◆
1トンを超える鉄の塊を動かし続けるガソリン。
そのガソリンよりも、ニトログリセリンは単体のエネルギー量では劣る。
しかし——
ガソリンが燃焼波を数メートル毎秒で広げるのに対し、ニトログリセリンは衝撃波を秒速7700メートルで解放する。
マッハ20。
全てのエネルギーを、0.000001秒で出し切る。
1リットルの液体が、一瞬にして1200リットルの高温ガスへと姿を変える。
◆
守り続けた時間が、最後の番人の命取りとなった。
狭心症の発作を鎮める血管拡張薬——
その同じ分子が、今、石の内側で解き放たれる。
◇◇◇
光が来た。音より先に。
まぶたの裏が白くなった。
床が跳ねる。身体が浮く。目の前の空間が一瞬消えた。壁に背中が当たった。何が起きているか分からない。分かろうとする。思考が散る。
また来る。音ではない。世界が圧縮されて、そのまま弾ける感触だ。耳が痛い。
石が飛んでくる。腕に当たる。頭を下げる。また来る。また来る。
ゲルトがどこにいるか分からない。ヴェルナーがどこにいるか。テアがどこにいるか。何も考えられない。来るものを受けることだけに、身体が使われている。
また来る。また来る。終わらない。
◇
間が空いてきた。
石が落ちる音。一つ。長い間。また一つ。もう来ない。
耳の奥で音が鳴り続けている。
リリアは顔を上げた。
白い煙が充満している。灯りが煙の中で滲んで輪郭だけになっている。目が痛い。咳が出た。
「ゲルトさん!」
「生きてる!」壁際から声が返る。「ヴェルナー!」
「問題ない。耳がやられただけだ」
◇
「テアさん」
返事がない。
煙の中を歩く。足元に欠片が散らばっている。
テアが床に倒れていた。手を投げ出して、うつ伏せに。
「テアさん!」
膝をついて肩に触れた。
「……起こさないで」
かすれた声だった。
「無理です、起きてください」
「……今動くと、吐きます」
少し間を置いて、付け足した。
「本当に」
しばらく黙って、胸の中の空気をゆっくり入れ替えていた。
「……ガーゴイルは」
顔を床につけたまま、テアが言った。目が開けられない様子だった。石の粉塵が充満している。涙が出ているのが見えた。
「崩れました」
しばらく、何も言わなかった。
長い息を吐いた。
「……そうですか」
それだけだった。でもその一言に、何年分かが入っているように聞こえた。
◇
煙が薄れてきた。
ガーゴイルがいた場所を見た。
形がない。翼も、腕も、何も残っていない。粉と塊が混ざって床に広がっているだけだった。何百年もそこにあったものが、どこへ行ったのか分からなかった。
目の石だけが、床に転がっていた。
二つ。欠けていない。丸いままだった。
テアが顔を上げた。床に手をついて、ゆっくり起き上がろうとしていた。
「……あの甘い液体、何ですか」
「よく分かりません」リリアは言った。「どこかの世界のヒーラーと、繋がって。それで出てきた」
「……そういうこと、あるんですね」
テアはしばらく残骸を見ていた。
「……生命爆ぜる甘露、とでも呼べばいいですか」
誰に向けたものでもなかった。
◇
ゲルトが立ち上がった。開口部の縁に手をついて、中を覗き込んだ。
「……来い」
リリアとヴェルナーが近づく。
灯りを掲げると、光が暗い空間に差し込んでいく。
奥に、人がいた。椅子に座ったまま、頭を垂れている。
「……人だ」ヴェルナーが言った。
ゲルトが一歩踏み込んだ。
骨だった。でも服をつけたままだった。宝飾品もある。手元に杯がある。壁の燭台も残っている。
ヴェルナーが燭台を見た。「盗掘が入っていない」
ゲルトが部屋を見回した。
「この城、来るまでもおかしかった。調度品が残りすぎてる。廊下の石像も——」
「石像じゃない」
テアが後ろから言った。まだ床に手をついていた。
「崩れていたやつ。あれは元々、ガーゴイルだ」
ヴェルナーが息を止めた。「……全部、敵だったのか」
ゲルトが振り返って、来た通路の方を見た。
「……倒されて石に戻ったやつが、何体もあった。それでも調度品は残ってる」
灯りを骨に向けた。
「最後の一体が、ここを守り続けていたのか」
ゲルトが低く言った。
「……王の間だ」




