三硝酸グリセリン(ニトログリセリン)
テアが動かない。
一撃を入れた姿勢のまま。右腕が前に伸びている。足が踏み込んだまま。
肩に触れる。
筋肉が硬い。皮膚の下が全部詰まっている。指が沈まない。
唇が青い。指先も。血が流れていない。
◇
「視線を合わせるな。石化だ」
ゲルトが荷棒を構えながら言う。視線をガーゴイルの胸に落としたまま、間合いを測っている。
ヴェルナーが矢筒の底から一本引き抜く。形が違う。四角い穂先——鎧を貫くための矢だ。
石に当たって、穂先が砕けた。床に落ちる。「目を狙っても駄目だ」
ゲルトが踏み込んで荷棒を振り込む。鈍い音がして手に衝撃が戻ってくる。退かない。もう一撃。また同じ音がする。「石だ。歯が立たない」
ゲルトが荷棒を下げる。リリアに目を向ける。「何かあるか」
◇
「テアさん、聞こえますか」
まつ毛が一度だけ動いた。
手をかざす。緑の光。回復魔法。
吸い込まれない。傷がない。出血がない。骨が折れているわけでもない。どこを治せばいいのか分からない。光が散る。
石化。
魔法学校で名前だけ習った。身体が石になるわけじゃない。視線を受けた瞬間、身体の自由を奪われる。鳥が天敵の前でぽとりと落ちる——あれに近い、と教わった。
実際に見るのは初めてだ。
もう一度。また散る。もう一度。また散る。
テアの胸が動いている。浅く、速い。
このまま続けば——心臓が——
荷袋に手が入っている。
◇
——誰も、犠牲者を出したくない……!!
最終救護——
ニトログリセリン——
1847年、イタリアの化学者ソブレロが合成した。
試みになめてみると、甘い。かすかな香りがある。
そして——激しい頭痛。
頭の血管が、広がりすぎた。
1853年、アメリカの医師ヘリングが
狭心症への応用を発案した。
飲み込んではいけない。
胃に落ちれば、肝臓が分解してしまう。
舌の下に含む——粘膜から直接、血の中へ。
一分で心臓に届く。
狭心症の発作——心臓に血を送る冠動脈が痙攣し、
血流が途絶える。心筋が酸素不足で悲鳴を上げる。
ニトログリセリンは痙攣した血管を広げ、
血流を取り戻す。
痙攣し、収縮した冠動脈に、再び血を通すもの——
すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!
◇
光が収束する。
底が丸いガラスの容器。細い管。氷の入った浅い箱。厚い手袋。
手袋をはめながら、ゲルトの動きが見える。視線を下げたまま間合いを詰めて、荷棒を振り込む。弾かれる。退かない。また踏み込む。ヴェルナーが角度を変えて矢を射る。弾ける。
ローブの襟元を引き上げる。容器を氷の箱に沈める。
救急鞄を開く。
硫黄の匂いがする小瓶——ブレンハイムの温泉から汲んだものだ。もう一本——フロストスパイダーの体液。壁から削った白い粉。
細い管で一滴ずつ、慎重に混ぜる。
石の爪が床を削る音が響く。「持ちこたえろ」
指が震えている。
しばらくして——透明な液体が、表面に浮く。
甘い香りがする。
小さな瓶に全部移して、細い管で一滴だけ吸い上げる。
◇
「口を開けてください」
顎が固い。指で押して、わずかに開く。舌の下に、一滴。
一秒。十秒。
肩から力が抜けた。崩れるところを支えた。胸が大きく動く。次の息が来た。
「……っ」
床に手をついたまま、立てない。
テアの傍に膝をついた。小瓶がまだ手の中にある。
ゲルトとヴェルナーが声を上げた。
ガーゴイルの腕が来た。
テアを庇う間もなかった。腕がリリアごとテアを薙いだ。
二人とも吹き飛んだ。
小瓶が手から離れた。
宙で弧を描いて——ガーゴイルの胸に液体が降りかかった。
長い年月、雨風に打たれ続けた石の表面。風化して白く、粉を吹いたように荒れている。指で触れれば崩れそうなほど、表面は細かな穴だらけだった。その穴が、音もなく液体を吸い込んでいく。
◇
ガーゴイルは動かない。
矢の跡もない。荷棒で叩き続けた跡もない。壁を背にして、ただ立っている。
ゲルトが壁に手をつきながら立ち上がる。何も言わない。荷棒を拾う。
ヴェルナーが矢筒を確かめた。「残りが少ない」
手詰まりだ。
ゲルトの荷棒は石には通らない。ヴェルナーの矢も同じだ。回復魔法は傷のないものには届かない。荷袋の底にメイスがある——でも、ヒーラーのリリアは戦士や騎士のようにガーゴイルと渡り合うことなどできるはずもない。
手を伸ばした。
テアが顔を上げた。
◇
「私がやります」
壁に手をついて、立っている。足が震えている。腰が入っていない。それでも、ガーゴイルから目を離さない。
「何をするんですか」
テアは答えなかった。
目を閉じる。深く息を吸う。鼻からゆっくり、長く吐く。また吸う。ヒーラーの呼吸でもキャスターのものでもない。これはきっと修道会のモンクのものだ——呼吸法。魔法学校でその名だけ聞いたことがある。
もう一度。また一度。
右手が前に出る。
目はまだ閉じている。それなのに、右手がガーゴイルの方を向く。
「何かが、見えます」
最近、毎日更新できない日がつづいてごめんなさい!
とうとうニトログリセリン回です!
爆薬としてでなく医薬品として使ってしまうのが
この作品らしさと感じていただけると幸いです!




