羊の脂と見習い少女
町に着いて二日目の朝、ニコが仕事を見つけてきた。
「織物ギルドで羊毛の洗浄を手伝ってほしいそうだ。日当は出る」
ミラの方を見ながら言った。
ミラは何も言わなかった。翌朝ついていった。
◇
案内してくれたのはイルゼという見習いだった。
ミラより二、三歳年上に見える。歩きながらよく喋った。
「刈り取ったばかりの毛って、重いんですよ。汚れと脂と汗の塩が全部ついてるから。うちで扱ってる羊だと、洗い終わったら半分近くになることもある。最初見た時びっくりしました」
広い作業場だった。桶がいくつも並んでいる。
壁際の棚に道具が並んでいる。その端に、小さなものがある。フェルトで作った何か。動物のような、そうでないような。歪な形をしている。
「それ、私が初めて作ったやつです」
イルゼが言った。
「恥ずかしいから捨てたいって言ったら、親方が駄目だって。姉弟子と兄弟子のも全員分あって。お前のも置くって言われて」
少し照れた顔で桶の前に立った。
「まあでも、初めてだから仕方ないんですけど。では手袋してください」
◇
リリアとミラが手袋をはめた。
リリアが二人の手に防御魔法をかけた。
イルゼが止まった。
「……なんですかそれ」
「灰汁で手が荒れにくくなります。少しだけ」
「え、そんなことできるんですか」イルゼが自分の手袋をしげしげと見た。「ヒーラーさんって、こういう仕事場に来ることないんで。知らなかった」
ニコが桶の端に腰を下ろした。矢の手入れを始めた。
◇
「洗浄剤は灰汁を使います。木灰を水に溶かしたやつです。アルカリで脂が落ちる」
「石鹸じゃないんですか」
「石鹸は高いんで。灰汁で十分です。ただ温度に気をつけてください。熱すぎると縮む。ぬるいくらいが正解で——私も最初やらかしました。洗い終わったら毛がごっそり縮んでて、親方に怒られて」
イルゼが桶に毛を入れた。ゆっくりと押す。こすらない。
「こうやって押す感じで。絡まらせないように」
ミラが真似した。
「そう。その感じです」
しばらくして、毛から黄ばんだ水が滲んだ。
「これがスイント。羊の汗が乾いた塩です。一緒に脂も出てきます。この脂、後で回収します。革の手入れとか薬に使えるんで、問屋に卸してます」
桶の表面に白っぽいものが浮いてきた。
ミラが指先でそっと触れた。
それから手を止めた。
イルゼが見ていたが、次の桶の方に目を移した。
◇
昼になった。
「この後、脂を回収して、廃液は畑に持っていきます。肥料になるんで。捨てるところないから全部使う。あ、ニコさん手伝ってもらっていいですか、これ重くて」
ニコが無言で立った。
「助かります。あの、ニコさんって弓使いですよね。さっきの矢、見えちゃって。いい鏃でした」
「……ああ」
「うちの兄弟子が弓好きで。いつか話せたら嬉しいんですけど」
「いや」
「よかった」
二人で桶を持ち出ていった。
リリアも後から続いた。
◇
作業場に、ミラとフリッツだけ残った。
イルゼが持ってきた弁当袋が棚の下に置いてある。
ミラが袋を開けた。黒パンと、布に包んだ何か。干し肉の切れ端。小さな水筒。
黒パンをちぎった。
フリッツが鼻先を寄せてきた。
ミラがパンの端を差し出した。
フリッツが食べた。
もう一度、鼻先を寄せてきた。
「……だめ」
フリッツが床に伏せた。顎を前足に乗せて、ミラを見ている。
ミラがもう一口食べた。
フリッツがじっと見ている。
「……だめって言った」
フリッツの耳が少し動いた。
ミラがため息をついた。小さいかけらを指でちぎって、置いた。
フリッツが勢いよく食べた。
ミラが水筒を傾けた。乾いた音がした。あまり入っていなかったらしい。
◇
「ただいまー」
イルゼが戻ってきた。
作業場を見渡して、止まった。
フリッツがミラの膝に頭を乗せている。ミラが耳の後ろを掻いてやっている。フリッツが目を細めている。
「……さっきの犬ですよね」
「うん」
「さっきと全然違くないですか」
「……いつもこう」
「えっ」
イルゼがリリアの方を見た。リリアが頷いた。
「なんか」イルゼが言った。「すごい」
弁当袋を持ってきて、ミラの隣に座った。自分の分を広げた。黒パンと、チーズと、干しぶどうが少し。
「ミラさんって動物好きなんですか」
「……好き」
「いいなあ。私、猫しか触れなくて。犬ってどう近づけばいいのか分からない」
「ゆっくり手を出す。目を見ない」
「目を見ない?」
「怖がらせないように」
「へえ」イルゼが遠巻きにフリッツを見た。「やってみていいですか」
「……どうぞ」
イルゼがゆっくり手を伸ばした。フリッツが顔を上げた。イルゼが固まった。
フリッツがまたミラの膝に顎を戻した。
「……無視された」
「慣れてないから」
「そうですよね」イルゼがチーズをかじった。「でもなんか悔しい」
◇
リリアとニコが戻ってきた頃、イルゼとミラは干し肉の固さについて話していた。
「これくらいが一番持つんですよ。柔らかいのはすぐ傷む」
「……旅だと固い方がいい」
「旅してるんですか。いいな。私、この町から出たことなくて」
「……遠くに行っても、帰る場所あった方がいい」
イルゼが少し黙った。
「そうかも」
リリアは入り口で止まった。
中に入らなかった。
◇
夕方、ゲルトが荷車でやってきた。
荷台に、麻袋がいくつかある。
「ハイディの分だ」
それだけ言って、袋を下ろした。ヴェルナーが手伝った。
イルゼが袋を開けた。量を見た。持ち上げた。鼻を近づけた。
「洗浄だけなら三日。フェルトにできる状態まで持っていくならもう二日。毛糸にして織るまでとなると、一か月はかかります」
「一か月」
「原毛から糸を紡いで、織りまで覚えるとそうなります。住み込みになりますね」
誰も何も言わなかった。
「フェルトなら五日で仕上げられます」
ゲルトが頷いた。
それで滞在日数が決まった。
◇
夕方になった。
「今日はここまでです。お疲れ様でした」
イルゼが桶を片付け始めた。
ミラがイルゼの方を向いた。
「……ありがとうございました。グレイとモリーのご飯の時間なので」
きちんとお辞儀をして、小走りで出ていった。
イルゼが少し遅れて「お疲れ様でした」と言った。ミラはもういなかった。
少し遅れて、フリッツが追いかけた。
ニコがイルゼに言った。「うちのロバだ」
「ああ、だからロバの世話が」イルゼが頷いた。「毎日来てるんですか」
「来てる」
ニコも出ていった。
◇
リリアは残っていた。
桶を重ねるのを手伝った。イルゼが水を流した。道具を棚に戻した。
「親方が言ってたんですけど」
イルゼが棚の整理をしながら言った。
「もしミラさんが長くいられるなら、見習いとして引き取ってもいいって。手当も出ます」
リリアは桶を持ったままだった。
「……そうですか」
「うちのギルド、ちゃんと教えますよ。私も教わったし」イルゼが棚の端の歪な塊をちらりと見た。「最初は誰でもあんな感じなので」
道具を並べ直した。
「妹弟子、できたことないんで」
独り言のような声だった。
「ちょっと楽しみだなって思っちゃいました」
照れているのか、背中を向けたまま言った。
リリアは何も言わなかった。
作業場の外で、ミラがグレイに話しかけている声が聞こえた。言葉ではなく、低い声の音として。グレイが鼻を鳴らした。
◇
宿に戻った。
夕飯の前、ミラが鞄を開けた。ハイディの毛の束を出した。指で触った。しばらくそのままでいた。
「……ハイディと同じ匂い」
誰に言うでもなかった。
鞄に戻した。




