石畳の一日
人類が心臓の痙攣に初めて打ち克った瞬間、
その手にあったのは——甘いシロップであった。
この液体は、爆発する。
血管も、爆発させる。
ただし——生きる方向に。
◇
ニトログリセリン——
1847年、イタリアの化学者ソブレロが合成した。
試みになめてみると、甘い。かすかな香りがある。
そして——激しい頭痛。
頭の血管が、広がりすぎた。
1853年、アメリカの医師ヘリングが
狭心症への応用を発案した。
飲み込んではいけない。
胃に落ちれば、肝臓が分解してしまう。
舌の下に含む——粘膜から直接、血の中へ。
一分で心臓に届く。
狭心症の発作——心臓に血を送る冠動脈が痙攣し、
血流が途絶える。心筋が酸素不足で悲鳴を上げる。
ニトログリセリンは痙攣した血管を広げ、
血流を取り戻す。
痙攣し、収縮した冠動脈に、再び血を通すもの——
すなわち、ヒーラーが装備可能な『治療器具』である!!
◇
見たことのない器具が、いくつか現れた。底が丸いガラスの容器。細い管。氷の入った浅い箱。厚い手袋。
手袋をはめた。ローブの襟元を引き上げた。顔が半分、隠れた。
容器を氷の箱に沈めた。
救急鞄を開いた。手が動いた。考えるより先に。
硫黄の匂いがする小瓶——ブレンハイムの温泉から汲んだものだ。もう一本——フロストスパイダーの体液。壁から削った白い粉。
慎重に混ぜた。細い管で一滴ずつ加えた。
しばらくして——透明な液体が、表面に浮いた。
甘い香りがした。
小さな瓶に、全部移した。細い管で一滴だけ吸い上げた。
指一本動かせなくなった少女の前に膝をついた。その顎を、そっと上向かせた。
舌の下に、一滴。
テアの頬に、色が戻った。指先に。唇に。
滞っていた血潮が、ほとばしるように。
——時は遡る。
◇
石畳に車輪が乗り上げた。
音が変わった。土の道から、石の道に。グレイの耳が動いた。
「着いたぞ」
ゲルトが手綱を引いた。広場の端。同じような荷車が何台か並んでいる。
ミラが荷台から降りた。グレイの鼻先に手を当てた。グレイが動かない。ミラの手が首の付け根をゆっくり擦った。フリッツが荷台の下に滑り込んだ。
ニコが口笛を吹いた。モリーの耳が動いた。
◇
ゲルトが荷台の端に腰を下ろした。ニコと何か話している。声が低くて聞こえない。
ミラの方を見た。それからリリアを見た。
「毛の処理に数日かかる。ここで仕事を作る」
それだけ言って、また荷台の確認に戻った。
◇
馬医は広場のそばに店を構えていた。
グレイとモリーを連れて行った。馬医が脚を一本ずつ持ち上げて、蹄を確かめた。歯を見た。目を見た。
「こっちは問題ない。春になったら繁殖も考えられる」
ゲルトが頷いた。モリーの鼻を軽く叩いた。
フリッツが馬医の足元を嗅いでいた。馬医が気づいて、しゃがんだ。耳を触った。腹を触った。
「街道犬か。珍しいな、町まで来るのは」
「ついてきた」
ミラが言った。馬医がミラを見た。それからフリッツを見た。
「虫下しを出しておこう。あとは問題ない。よく食えてよく動いてる」
◇
倉庫街は広場から二本入ったところにあった。
番頭が出てきて、荷を一つずつ確かめた。次の便の話、街道の状況。ゲルトとニコが交互に答えた。リリアには分からない話が続いた。
蜘蛛の素材が出てきた時、番頭の目が変わった。
脚を一本持ち上げて、関節を確かめた。それから体液の瓶を光にかざした。
「フロストスパイダーか。今季はほとんど入ってこない」
「それと体液だ。小瓶五本と瓶一本は手元に残す。その分は値から引いてくれ」
「サンドベアーが山を荒らしてからおかしくなった。蜘蛛だけじゃない。どこも似たようなもんだ。体液はそちらで?」
「薬に混ぜる。甘みもつく」
番頭が頷いた。値踏みの目が一瞬リリアに動いて、また帳面に戻った。
帳面の数字が書き換えられた。
◇
ギルドは広場を抜けた先にあった。
次の仕事を探さないといけない。ゲルトたちとの別れは近い。
受付が帳面から顔を上げた。落ち着いた目をしていた。
「一人でできる採集の依頼はあるか」
受付が帳面をめくった。一枚、二枚。
「地下回廊の壁硝採取が出ていましたが——二日前に受注されました」
他の依頼に目を走らせた。討伐。護衛。一人向きの採集は今それだけらしかった。
「……ありがとうございます」
外に出た。
しばらくして、ゲルトが出てきた。
「次行くぞ」
それだけだった。
◇
靴屋は市場の端にあった。
扉を開けると革と蜜蝋の匂いがした。職人が作業台から顔を上げた。リリアの靴を見て、ミラの靴を見た。
「全部か」
「洗浄と補修と脂。左右も入れ替えてほしい」
職人がミラの靴を手に取った。裏返した。踵の減り方を見た。それから中に手を入れた。詰め物を引っ張り出した。
古い布だった。端がほつれている。
職人が新しい詰め物を棚から出した。ミラの足に当ててみた。少し切った。また当てた。
ミラが黙って立っていた。
靴の中に詰め物が入った。職人がミラの足を靴に入れさせた。つま先を軽く叩いた。
「どうだ」
ミラが数歩歩いた。立ち止まった。
「……ちゃんと入ってる」
職人が頷いて、リリアの靴を手に取った。
ミラが鞄をごそごそやった。小さな布包みを出した。職人に差し出した。
職人が受け取って、鼻に近づけた。一度だけ。それから布を開いた。
何も言わずに、リリアの靴に塗り始めた。
新品には戻らない。
それでも、一日でも長く履けるように。
職人の手が、丁寧に動いた。
ミラの靴は、どこまで一緒に行けるだろう。
100話目にして遂に粉塵爆発の次にこの手のラノベの定番、かもしれない
ニトログリセリンの登場です!
連載初めて半月くらいの頃
ネタのストック残り2章くらいしか無かった所から
ここまで続けてきましたが
なんと、定番ネタなのに当初の予定にありませんでした。
この世界でニトログリセリンから
ダイナマイトまで発明されてしまうと
以降の展開がそれ前提で雑になってしまいます!
そのへんのスリルもお楽しみください!




