第99話 父の屋根
王都への街道の途中で、アルノは御者に言って馬車を止めさせた。去年の秋、同じ場所で屋根を見た。丘の向こうに瓦の屋根が一つ覗いていて、その端に小さな窓がある。屋根裏の窓だった。あのときは寄らなかった。帰るのは手紙を作ってからです、と言った。
「寄るのか」イルゼが帳簿から目を上げて訊いた。窓の外の屋根を、ちらりと見た。
「寄ります。手紙は、まだ王都まで届いてませんけど」アルノは丘の向こうの屋根を見た。「男爵になったら、あの家の三男じゃなくなるので。その前に、一回だけ」
「谷の男爵が、実家に寄り道ってか。馬車代は、この一里ぶん上乗せだぞ」
「払います! いつか!」
「いつか、は利息つけとく」
馬車が丘の道へ曲がると、アルノは窓に顔を寄せた。畑の畝も、門の脇の楡も、覚えているとおりだった。覚えているより、どれも低かった。
「親父さんに、何て言うんだ」イルゼが訊いた。
「分かりません。父上は、手紙だと追伸でしか本当のことを書かないので」アルノは膝の上で手を組んだ。「会って話すと、追伸がないんです。だから、いつも本文だけで終わります」
「本文だけの親父に、本文だけで挨拶すりゃいいだろ」
「……はい。そうします。本文だけで」
ブラウエン家の門をくぐると、執事が慌てて奥へ走った。父は留守だった。公家の用で、十日前から王都に詰めているという。アルノは組んでいた手をほどいた。
代わりに、長兄ディートリヒが玄関まで出てきた。後ろに、若い女が一人ついてきていた。公家から来た兄の妻だった。婚儀の広間で一度だけ見た顔が、今日は小さく笑っていた。
「アルノ! 念のため訊くけど、歩いて大丈夫なのか。冬に倒れたって、マティアスから聞いた」
「大丈夫です! ベアタさんが、一日一本までいいって」
「一本って、何の一本だ」ディートリヒが眉を寄せた。嫌な予感のする顔だった。
「雷です。湿地で、ベアタさんの前で」
ディートリヒは襟を二度直した。妻が袖で口元を隠した。イルゼが天を仰いだ。
「……念のため、ここでは呼ぶなよ。屋根は、父上が去年葺き直したばかりなんだ」
「お噂は、主人から毎晩」兄の妻が、袖を下ろして言った。「雷を数える弟の話を、寝る前に」
「毎晩ですか!?」
「毎晩じゃない」ディートリヒは襟に手をやった。「……三日に一度くらいだ。たぶん」
兄の書斎の机の上に、七つに枝分かれした硝子が置いてあった。婚儀の日に贈った硝子だった。窓の光が枝に入って、七つの色になって机の上にこぼれている。ディートリヒは弟の視線に気づいて、硝子の脇の布を直した。「一生、大事にするって言ったろ」
「はい。……父上は、これを見ましたか」
「見た。何も言わなかった」ディートリヒは少し間を置いた。「言わなかったけど、この部屋に来るたびに、机の前で足を止める。念のため言っておくと、僕の机に用があるわけじゃない」
屋根裏へ上がる梯子は、昔のままだった。アルノは梯子を上がりきったところで立ち上がり、梁に額をぶつけた。ごん、と鈍い音がした。下からイルゼの声がした。
「おいおい。自分の育った屋根裏で頭打つ奴があるか」
「前は、ぶつからなかったんです!」アルノは額を押さえた。
「伸びたんだろ。雷に打たれて」
屋根裏は、思っていたより狭かった。低い天井。埃の匂い。床に毛布が一枚畳んであり、窓の下の床板が一枚、外れたまま脇に立てかけてあった。
板の下に、浅い空洞がある。十年分の帳面の束が、前はそこに眠っていた。谷に着いた年の秋、父の追伸がその空洞のことを教えた。父は知っていて、十年、何も言わなかった。アルノは膝をついて、空洞の縁を指でなぞった。埃の上に、束を抜いた四角い跡が残っていた。
イルゼが梯子の上から顔だけ出して、屋根裏を見回した。
「ここから見てたのか。空」
「はい。十年。毎日です」
「狭えな。坊ちゃんの谷の、半地下の寝台より狭え」
「狭いです! でも、雷は窓からでも見えるんです」アルノは窓に額をつけた。ガラスが冷たい。「父上が、昔そう書いてくれました。窓を閉めて寝ろ、雷は窓からでも見える、って」
丘と畑の向こうに、王都のある西の空が霞んで見えた。その上の空は、晴れていた。雲は一つもない。ここから十年、この窓の空だけを見ていた。雷が来る日を待って、来ない日は帳面をつけた。谷の空は、この窓には入りきらない。
「アルノ」梯子の下から、ディートリヒが呼んだ。下りると、兄は封をした書状を一通持っていた。封蝋はブラウエン家の紋だった。
「父上から預かった。お前が寄ったら渡せ、と」ディートリヒは書状を弟の手に載せた。「それから。念のため。叙爵の後に開けろ、と父上が」
「叙爵の後、ですか。前じゃなくて?」
「そう言っていた。理由は訊いたけど、答えなかった」
アルノは書状を裏返した。封蝋の縁に、親指で押した跡が一つ残っていた。紋を押すときに、指ごと押しつけたのだろう。蝋が冷える前に、しばらく押さえていた跡だった。アルノはその跡を見て、開けずに、懐へしまった。
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