第100話 男爵
謁見の間の窓は、高いところにしかなかった。
光は天井近くから斜めに差し込み、床の赤い敷物の上に長い帯を作っている。帯の両脇に、諸侯と廷臣が並んでいた。囁き声が、高い天井に吸い込まれては落ちてくる。
玉座の老王グレゴールは、痩せた手で肘掛けを握っていた。叙爵の文言を読み上げる侍従の声の途中で、二度、咳き込んだ。そのたびに右の席の王太子ルートヴィヒが身を乗り出し、青い顔で父王の背を見た。
左の席には、王弟ベルンハルトが腕を組んで座っていた。咳にも侍従の声にも、顔色を変えなかった。敷物の上を歩いてくるアルノだけを、じっと見ていた。
王族の列のいちばん端に、若い女が一人立っていた。小さな帳面を手にしている。アルノが前を通るとき、女は顔を上げずに、帳面に一行書きつけた。
アルノは敷物の端で跪いた。
古い作法で、王領から叙される者は左の袖を肘の上までまくり、王の剣の平を腕に受ける。侍従に言われたとおり袖をまくると、廷臣の列のどこかで息を呑む音がした。手首から肘、肘から袖の奥へ、雷紋の枝が広がっている。高い窓の光の中で、それは白く浮いて見えた。
老王が立ち上がり、侍従から剣を受け取った。刃の平が、アルノの腕に置かれた。冷たかった。雷紋の上で、鋼がかすかに震えている。老王の手が震えているのだと、アルノは気づいた。
「ザーラの男爵」老王の声は掠れていた。「谷と峠を、汝の物とする」
「……お受けします」
剣が離れた。侍従が、新しい紋を描いた盾を掲げた。青地に、稲妻の枝が一本。枝の先が七つに分かれていた。
列の中で、笑い声が一つ上がった。
「雷の谷の男爵か。領民は雷で、年貢も雷で払うのかね」
指に三つ指輪を嵌めた中年の男だった。去年の夏、兄の婚儀の広間で、イルゼを嘲った男だ。公家の縁者で、アロイスという名だと、今日廷臣の囁きで知った。周りの何人かが扇の陰で笑った。アルノは跪いたまま、振り返らなかった。笑い声は、王弟の咳払い一つで止んだ。
* * *
謁見の間を出ると、マティアスが待っていた。近衛の礼装で、廊下の角で若い騎士たちに何か話している。
「——だから、俺が推したんだ。殿下に谷の硝子を見せたのも俺だし、評議会で弟の名を出したのも俺だ。な、アルノ!」
「兄上、そうなんですか!?」
「そうだとも。俺に任せろって言ったろ」
マティアスは弟の肩を叩き、騎士たちの輪に戻っていった。
廊下の向こうから、王弟の一行が来た。王弟は足を止めず、すれ違いざまにアルノの左腕を見下ろした。今日、その腕は吊られていない。
「男爵。で、何人殺せるようになった」
「……数えてません」
「そうか」王弟は笑った。大きな、よく響く笑い声だった。「なら、まだだな」
一行が廊下を曲がっていく。マティアスの目が、騎士たちの輪の中から、その背中を追っていた。
「推したのは王女だろ」イルゼが小声で言った。「礼金、二百取って」
「……兄上も、きっと何か言ってくれたんです」
「言ったかもな。方々で」
* * *
宿は王都の東の門に近い安宿の二階だった。イルゼが値切った部屋だ。
イルゼは卓に帳簿を広げ、王家への借りの行に、今度は数字を書き込んだ。書き終えると、ペンの尻で二度叩いた。
「紋の枝、七つだったな」
「はい。紋を描く人に訊かれたので、兄上の硝子の形にしてもらいました」
「七つに分かれた硝子を、売らねえって言い張った奴の紋か」イルゼは鼻を鳴らした。「高い紋だよ。二百だ」
「イルゼさん。王様の手、震えてました」
「年寄りの手は震えるもんだ」
「剣が、腕の上で鳴ってたんです。雷紋の上で、ずっと細かく」アルノは左の袖をまくって、肘の内側を見た。何の跡も残っていない。「冷たい剣でした。持ってる手のほうが、もっと冷たかった気がします」
イルゼはペンを止めて、しばらくアルノの腕を見ていた。
「それ、よそで言うなよ。王宮の中の話は、拍より早馬より速く回る」
「言いません。イルゼさんにだけです」
アルノは窓際の椅子に座り、懐から父の書状を出した。封蝋の縁の、指の跡を親指でなぞる。叙爵の後に開けろ。今が、その後だった。
封を切った。本文は二行だった。見慣れた、硬い、短い字だった。
籍を抜く手続きは済ませた。以後、家の名で借りるな。
アルノは紙を膝に置いた。ブラウエン家の三男は、今日で終わった。父はそれを、叙爵の前に済ませていた。息子が男爵になる日に、家の名を背負わせないために。そう読めば読めた。冷たく読めば、冷たくも読めた。
紙の下のほうに、一行空けて、もう一行あった。本文より小さく、少しだけ崩れた字だった。
母さんに、見せたかった。
アルノはその一行を読んだ。もう一度読んだ。それから紙を二つに畳み、膝の上で両手で押さえた。窓の外は晴れていた。王都の空に、雲は一つもない。数えるものが、何もなかった。
「坊ちゃん」イルゼが帳簿から顔を上げた。「どうした。何て書いてあった」
アルノは答えなかった。椅子から立ち上がり、窓に背を向けて、部屋の奥の壁のほうへ歩いた。イルゼに背を向けたまま、壁に手をついた。
「……イルゼさん、ちょっと、窓の外、見ててください」
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【第10章「封鎖破り」のあらすじと登場人物】(第91〜100話)
■あらすじ
倒れたアルノに代わり、イルゼは金庫の鍵を手に、組合が閉ざしたミルデの門の外へ市を開く。工房の手入れと夜襲、組合長との対決を越え、参事会の票で市の日に門を開かせ、「谷の手形」で麦を買った。峠を伯へ移せという評議会の命に対し、王女から爵位の申し出が届き、アルノはザーラの男爵となる。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
谷の保持者で、章の終わりにザーラの男爵となった。春の半ばまで寝台を離れられず、ハンネが読み上げる拍を全部数えながら、イルゼの帰りを待った。ひと冬ぶりに呼んだ一本は、谷に来た日と同じ甘い味。叙爵の夜、父の書状の最後の一行に言葉を失う。
◆イルゼ
谷の財務官。王の街道の上なら組合の鑑札は要らないと門の外に市を開き、昔の控え帳から借りのない名前を選んで参事会を動かした。組合長には窓口の敬語で請求を突きつけ、ハルデンの銅を裏付けにした手形で麦を買う。爵位の礼金二百には「高えよ」とぼやいた。
◆ボルク
峠の守りの長。峠からミルデへ線を延ばす組を率い、市の日に町の外壁まで届かせた。峠を伯へ移せという命には「番をしてきたのは、わしだ」と退かない。男爵になれば番小屋の壁もお前の物だと告げて、アルノの心を決めさせた。
◆ハンネ
受け小屋の係の頭。ミルデから届く拍を、日に何度も寝台のアルノへ読み上げに走った。イルゼが打った「門・開いた」には「打ち方、下手」と言いつつ、真っ先に「今日のいちばん!」と叫ぶ。王女の申し出は、いつもの半分の速さで丁寧に書き起こした。
◆ベアタ
谷の医師。冬のあいだ見せなかった脈の紙を手に、春の半ばにようやく一本だけ呼ぶことを許した。体に残すのは肘まで、と条件をつけて見届ける。見舞いに来た樽屋の年寄りの脈まで取り、「年寄りのほうが、脈が正しい」と言い放った。
◆ズデンカ
黒羽団の頭。五騎でイルゼの荷車を守り、夜襲では数の差を見て追わせなかった。逃げる頭目の手下の走らせ方から、去年の夏に谷の荷を奪った男だと見抜く。評議会に「山賊であった」と書かれても、「間違ってはいない」と受け止めた。
◆ヴォルタ
谷の白い雷獣。出立するイルゼの荷車に勝手に飛び乗り、ミルデまでついていった。夜襲では毛を鳴らして荷車を守り、橋を塞いだ一団の前では壺の上で毛を逆立てて、号令を一拍遅らせる。谷へ戻ると、イルゼの帳簿の上に座り込んだ。
◆アンゼルム・ラッセル
ミルデの組合の長。谷の品に門を閉ざし、雷信の線と符号を差し出せば開くと迫った。イルゼには一割の払いと帳場の席を示して呼び戻そうとし、請求には「証拠は秤に載る物のこと」と笑ってかわす。冬に線が四十か所で切れたことまで、早馬で掴んでいた。
◆樽屋の年寄り
堰の水門に脚を挟まれ、杖をつくようになった谷の老人。杖をついて寝台のアルノを訪ね、礼ではないと言いながら、堰の日に谷が守られるのを見たと告げた。漏れる壺は割れない雷木の樽で囲え、と知恵を授ける。名を訊かれると「樽ができたら、樽に書く」と答えた。
◆エックハルト
アルノの父。王都に詰めていて、実家に寄った息子とは会えなかったが、「叙爵の後に開けろ」と書状を長兄に託していた。本文は、籍を抜いたという硬い二行。その下に、少し崩れた小さな字の一行が添えられていた。




