第101話 男爵の騎兵
初夏の朝、峠の坂を荷車が下りてきた。
一台が曲がり角を抜けると、その後ろにもう一台、さらに後ろに手押し車と、子どもを背負った女と、山羊を引いた老人が続く。雪が消えてから、坂を下りてくる列は途切れたことがない。伯の麦の村から、ミルデの裏町から、鉱山町の外れから。雷の谷に男爵がついたという話は、谷に人が来る理由より、ずっと速く広まっていた。
坂の下の平地では、ボルクが槍の列を振らせていた。去年の秋に九十ほどだった列が、今朝は二百に届いている。半分は先月まで鍬しか握ったことのない手だった。
「男爵様!」
列の端の若い者が、槍を立てて呼んだ。アルノは後ろを振り返った。誰もいなかった。
「……あ、私ですか!」アルノは自分の鼻を指さした。
「あんた以外に誰がいんだよ」隣で帳簿を抱えたイルゼが言った。「叙爵から一月たって、まだ振り返んのか」
「だって、男爵様って、父上のことでしたから」
「今はあんただ。慣れろ。いちいち振り返ってたら首が凝る」
槍の列から笑いが起きた。ボルクが咳払いをひとつすると、笑いは槍の穂先ごと揃って前を向いた。
イルゼは帳簿を開き、坂の荷車に目をやった。今朝も、峠の番小屋から拍で数が来ていた。夜明けから昼までに峠を越えた家族の数。イルゼはそれを受け取るたびに、麦の欄の数字を一つずつ削っていく。
「来るのはいい。来るのは」イルゼはペン先で荷車の列を追った。「問題は、来た奴が秋まで何を食うかだ」
「段々畑の豆が、夏の終わりに採れます。堰の下の段も、今年は全部使えます」
「全部使っても足りねえから言ってんだよ」
「じゃあ、壺をもっと売ります!」
「売ってるよ。売った金で、あれを買った」
イルゼは顎で坂の上を指した。地面が鳴っていた。
蹄の音だった。荷車の列が慌てて路肩へ寄る。三つ目の曲がり角から馬が現れ、次々に続いて、速さを落とさずに坂を駆け下りてくる。
先頭の背の高い女の髪で、黒い羽根が一本、風に倒れて揺れていた。後ろに続く騎兵たちの兜や帽子にも、同じ黒い羽根が一本ずつ挿してある。何十という羽根が一斉になびき、坂の上から黒い波が落ちてくるように見えた。
「馬です!」アルノは帳簿の上から身を乗り出した。「イルゼさん、見てください! 黒羽団の人たちが、五騎だけじゃなくて全員、馬に乗ってます!」
「見てるよ。あたしが払った馬だ」
「速いです! すごく速い! 坂の二つ目から三つ目まで、いち、に、さん……」
「数えんな」
ズデンカは平地の手前で手綱を引き、馬を横に回して止まった。後ろの騎兵が間を空けて同じ向きに並ぶ。この冬、かんじきで雪の峠を越えていった隊が、初めて隊ごと馬を揃えていた。馬は二型の稼ぎで買った。ハルデンの鉱山の、三つ目の契約の前金が、そっくり蹄の下にある。
「揃った」ズデンカが馬上から言った。「脚の悪いのを二頭返した。残りは使える」
「ありがとうございます!」
アルノは懐から紙を出した。イルゼが三晩かけて書き直した紙だった。
「ズデンカさん、これ、読んでください」
ズデンカは馬を下りずに紙を受け取り、目を走らせた。途中で眉が上がる。
「臣従の誓いじゃないな」
「はい。契約です。騎兵と斥候の長。一年ごとに、ズデンカさんが続けるか決めてください。払いは月ごと。馬は谷の物で、乗る人はズデンカさんが選びます」
「男爵になったら、誓わせるもんだと思ってた。貴族ってのは、そういうもんだろ」
「誓わせません」アルノは首を振った。「ズデンカさん、前に言いましたよね。手下を、誰の十人にもさせないって」
ズデンカは紙から目を上げた。空を一度見て、それからアルノを見た。
「あたしは、あんたの十人にはならない」
「知ってます! だから契約です!」
後ろの騎兵の誰かが口笛を吹き、ズデンカに睨まれて首をすくめた。ズデンカは紙を二つに折り、鞍の袋にしまった。署名はあとで谷の卓でする、と言った。字を書くときは馬を下りる主義なのだという。
「ボルクさんにも、あるんです」
アルノは振り返った。槍の列の脇で腕を組んでいたボルクが、眉を寄せた。
「何がだ」
「峠の守りの長です。男爵領の、正式の。印も作りました」アルノは小さな木の印を掌に載せて差し出した。稲妻の枝の紋が彫ってある。「ボルクさんの名前で、峠の人も、槍の人も、動かせます」
ボルクは印を見下ろしたまま、手を出さなかった。
「要らん」ボルクは言った。「峠の者は、印がなくても動く」
「え……」
「名前は、番小屋の壁にもう足りてる」ボルクは顎で坂の上を指した。「称号をくれる金があるなら、番小屋の屋根を直せ。北の隅が漏る」
「屋根……」アルノは印を見た。稲妻の枝が、掌の上で間の抜けた顔をしていた。
「冬の前にだ。雪が載ってからじゃ、梁ごと落ちる」
それだけ言うと、ボルクは槍の列へ戻り、止まっていた穂先をまた振らせ始めた。アルノは印を握ったまま、しばらく立っていた。イルゼが横から印をつまみ上げ、帳簿の間に挟んだ。
「使わねえなら、あたしの判子にする」
「だめです! それは峠の……」
「屋根の修理代の払いに押すんだよ。峠の用だろ」
ズデンカが馬首を返し、坂の方へ向けた。騎兵たちがそれに続いて列になる。去り際に、ズデンカは肩越しに言った。
「それと、馬の餌代は、谷持ちだ」
イルゼは帳簿を開き、契約の写しの頁を指でなぞって、長い息を吐いた。
「……値切るとこがねえ」
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