第102話 王の街道の塔
柱が足りなかった。
イルゼは毎朝、受け小屋の卓で同じ勘定をした。ミルデから王都の城壁の外まで、塔を立てる区間。立った柱の数と、まだ立っていない柱の数。北風の十日までの日数。そこへ、雷木を切り出して峠を越えさせる荷車の往復を掛ける。
「足りねえ」
今朝も、答えは同じだった。イルゼはペンを耳に挟み、窓の外の尾根を睨んだ。
「どのくらいですか」向かいの卓で、アルノはハンネが拍から起こした控えの紙をめくっていた。
「伯の領地を突っ切れりゃ、ちょうど足りた。遠回りの分だけ足りねえ」
伯の返事は春の終わりに来ていた。私領に他家の柱を立てることは、王国の法が認めていません。記録によれば、柱の立つ土地は、いずれ柱の主の物になっていきます。丁寧な字で、それだけが書いてあった。
伯の麦畑を横切ればまっすぐ行ける道を、塔の列は王の街道の上だけを通って、伯の領地の縁をぐるりと回る。街道は王の物で、誰の麦畑でもない。
「伯爵さんは、正しいです」アルノは紙を置いた。「法どおりです」
「正しいから腹が立つんだよ」イルゼはペンで卓を叩いた。「嫌がらせなら、嫌がらせの値で買い叩ける。あのおっさんのは、きっちり法の値だ」
「柱の値は、変わらないですよね」
「変わらねえよ。本数が増えるだけだ。本数が増えりゃ、峠を越える荷車が増える。荷車が増えりゃ、騾馬と御者と、荷を見張る人手が要る」イルゼは帳簿の一行を指で押さえた。「ついでに、北風の十日は一日も延びねえ」
針の先で、青い火花が跳んだ。
ハンネが指を折り始めた。受け小屋の奥の卓で、硝子の針と地面の間を見つめている。行の拍、間、段の拍。一つ一つ指を折り、指が足りなくなると膝を叩いて数を継ぐ。前は小石で雷を数えていた手が、今は谷で誰より速く言葉を数える。
「ブラウエンから」ハンネが顔を上げた。「『ネンノタメ トウノアシニ クサリヲ』」
「兄上です!」
アルノは椅子から跳ね上がった。膝が卓に当たって、控えの紙が床に散った。
「ディートリヒ兄上、ほんとうに打ってきた! ハンネさん、それ、兄上の言葉ですよね!? 念のため、って、兄上の口癖です!」
「念のため、って四拍も使った」ハンネは不服そうに言った。「なくていいのに」
「なくちゃだめなんです、兄上は!」
ブラウエン領を通る区間は、長兄が引き受けていた。男爵家の小作に柱の穴を掘らせ、屋根裏の窓から見える丘の上に、一本ずつ柱を立てていく。雷のほとんど落ちない土地で、雷よけの鎖は要らない。それでも兄は、塔の足に鎖を巻かせていた。
「鎖の分、柱の値が上がる」イルゼがぼそりと言った。
「兄上が払ってくれます。念のため、なので」
「そういうとこだけ、兄弟そっくりだな」
イルゼは帳簿にブラウエンの区間の柱の数を書き入れた。書き入れて、また足りない行を見た。
* * *
午後、アルノは峠の番小屋へ上がった。
番小屋の脇に、三方への分かれの柱が立っている。谷へ、ハルデンへ、ミルデへ。冬のあいだ、この柱の下の小屋で、ミロシュが拍を受けては打ち直していた。
ミロシュは小屋の戸口で、雷木の柱の根元に油を塗っていた。脚の矢傷はもう治っていて、歩き方に癖が残っているだけだった。アルノを見ると立ち上がり、手の油を前掛けで拭った。
「男爵様」
アルノは今度は振り返らなかった。ミロシュが笑いをこらえるのが見えた。
「ミロシュさん。ボルクさんから聞きました。丘の中継所に移りたいって」
「はい」ミロシュは頷いた。
峠から西へ下りた最初の丘に、峠とミルデを結ぶ線の中継所がある。春に急いで引いた線で、中継所といっても天幕に硝子の針を置いただけの場所だった。それをこの夏、板の小屋に建て替える。伯の領地との境の丘で、線の中でいちばん谷から遠く、いちばん伯の村に近い。
「あそこからは、村が見えるんです」ミロシュは丘の方を見た。「アダルベルトさんの村。母と妹がいます。……屋根が見えるだけですけど」
「怖くないですか。伯爵さんの領地の、すぐ脇です」
「伯は、夜に人の小屋を襲ったりしません」ミロシュはあっさり言った。「伯は、法でしか来ません。男爵様も知ってるでしょう」
アルノは頷いた。知っていた。
「退き口は」
小屋の中から、ボルクの声がした。戸口に出てきたボルクが、ミロシュの顔を見た。
「丘の小屋の裏から、沢へ下りる溝を掘ってあります。溝の先に綱。綱を下りきったら、沢沿いに峠へ」ミロシュは指を三本立てた。「三度、言えます」
「一度でいい。使え」
「はい」
ボルクはそれ以上何も言わなかった。アルノは丘の方を見た。夏の午後の光の中で、丘の上の天幕が白く小さく見える。その向こうに、麦の海と、屋根がいくつか。
「二人番にしましょう」アルノは言った。「丘の小屋は、ミロシュさんと、もう一人」
「見習いがいます。ハンネに教わってる、粉屋の坊主です。拍を数えるのは速いんですけど、夜はすぐ寝ちまう」
「じゃあ、その人と。ボルクさん、いいですか」
ボルクは答えず、小屋の中へ戻った。いい、という意味だった。
* * *
北風の十日まで、柱はまだ足りなかった。
その夜、受け小屋に残っていたのはハンネだけだった。アルノが領主館の寝台で天気帳を閉じかけたとき、戸が叩かれた。開けると、ハンネが控えの紙を一枚握って、息を切らしていた。
「丘から。夜の拍」ハンネは紙を突き出した。
子どもの角ばった字で、一行だけ書いてあった。
トウノシタニ ヨル ヒトカゲ
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