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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第11章 一日で届く手紙

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第103話 最後の拍

 人影の拍から三晩、ズデンカの騎兵が丘の下を回った。


 出てきたのは、踏まれた草と、焚き火の跡が一つだけだった。伯の領地から迷い出た牛追いだろう、と騎兵は言った。四晩目、騎兵は西の街道へ出た。雷木を積んだ荷車の列が、ミルデの手前で二度、荷を荒らされていた。柱が足りない。荷車を守れと言ったのは、アルノだった。


     * * *


 丘の小屋の中は、壺の青い光だけで明るかった。


 ミロシュは卓の前に座り、硝子の針の先を見ていた。夜の拍は少ない。ミルデからの控えを二通、峠へ打ち直してからは、針は一度も跳んでいない。見習いの坊主は壁際の藁の上で、大の字になって眠っている。粉屋の次男で、ハンネに符号を習って半年になる。


 油の匂いがした。


 ミロシュは顔を上げた。小屋の板戸の隙間から、夜風と一緒に灯り油の重たい匂いが流れ込んでくる。外で、柱の根元に何かが当たる音がした。液体が木を叩く音だ。


 戸の節穴に目を当てた。月のない夜で、塔の足元に黒い影がいくつも屈んでいる。松明はない。一つ、二つ、五つ、もっと。桶を傾けて、柱の根元に油を回している。


 ミロシュは藁の上の坊主の口を手で塞ぎ、耳元で言った。


「起きろ。声を出すな」


 坊主の目がぱちりと開いた。塞いだ手の下で、何か言おうとしてもがく。


「外に人がいる。十人くらいだ。塔に油を撒いてる」ミロシュは手をゆっくり離した。「退き口。三度言えるな」


「……小屋の裏の板。溝。綱。沢を峠へ」


「一度でいい。行け」


 小屋の裏の、藁束で隠した板を外す。沢へ下りる溝が、闇の中に黒く続いていた。坊主は溝の縁で振り返った。


「ミロシュさんは」


「峠に知らせる。すぐ行く」


「一緒に行きましょうよ。知らせは、峠に着いてから打てば」


「峠に着く頃には、この小屋は燃えてる。燃えたら、峠は何も分からねえ」ミロシュは坊主の背中を押した。「何人で、どっちから、何を持って来たか。それだけ打ったら行く。お前は先に行って、ボルクさんに言え。ミロシュはすぐ来るって」


 坊主はしばらく溝の縁から動かなかった。ミロシュがもう一度押すと、ようやく闇の中へ滑り降りていった。綱のきしむ音が、下へ遠ざかる。板を戻し、藁束を寄せて継ぎ目を隠した。外の足音は、まだ柱の周りを回っている。


 卓へ戻り、壺の口に手を置いて、銅線の端をつまむ。夜は峠の小屋が線をつなぎ直してあって、丘の拍はそのまま谷の針まで跳ぶ。


 行の拍。間。段の拍。


 シュウゲキ。


 外で、火打ち石の音がした。


 ニシ。


 壁の板の隙間が、橙色に明るくなった。塔の足元から火が上がる。油の燃える音が、雨の降り始めのように広がっていく。


 ジュウ。


 戸が蹴られた。閂が一度で鳴り、二度目で割れ目が走る。ミロシュは戸の方を見なかった。ボルクの壁の名前が、目の奥に一列に並んでいた。退き口を使え、と言われた。分かっている。あと一つだけ打てば、峠の者は自分の退き口を使える。


 指が、次の文字の最初の拍を打った。


     * * *


 谷の受け小屋で、ハンネが指を折っていた。


「……ジュウ」


 アルノが戸口に駆け込んできたとき、ハンネは膝の上で両手を開き、次の拍を待っていた。寝間着の上に外套を引っかけ、裸足のまま領主館から走ってきたアルノの胸が、大きく上下している。


「丘ですか!」


「丘から。シュウゲキ、ニシ、ジュウ」ハンネは針から目を離さなかった。


「襲撃……十人、ですか!? ジュウって、十人ですよね!?」


「まだ続いてる。ジュウの後に、何か来る」


 針の先で、青い火花が跳んだ。


 ハンネの指が一本、折れる。次の文字の、行の拍の一つ目。


 アルノは卓の端を掴んで、針を見つめた。行の拍の二つ目が来るか、間が来るか。間なら一文字目が決まる。油か、火か、剣か。


 来なかった。


 ハンネの指が二本目を折りかけたまま止まっている。硝子の針の先は暗いままで、小屋の中には壺の青い光と、二人の息の音しかなかった。


「……間、ですか」アルノは言った。「今のは、間ですよね。ハンネさん」


 ハンネは答えなかった。針の先を見たまま、折りかけた指の形を崩さない。


「ミロシュさん、間をいつも長く取るんです。丁寧だから。ね、ハンネさん、そうですよね」


「いつもの間は、拍一つ分」ハンネは針から目を離さずに言った。「二つ分なら、段が替わる。三つ分なら、文字が終わる」


「今のは」アルノの声が掠れた。「今のは、何ですか」


 ハンネは指を折りかけたまま、首を小さく横に振った。


 アルノは針を見つめた。硝子の先の、暗い一点を。


 光ったら数える。音が来るまで数えたら、もう怖くない。次の拍が来るまで数えていれば、来る。来たら、丘で何が起きているかが分かる。


「いち」


 針は暗い。


「に……」


 声が、喉の奥でつまずいた。


 三つ目の数が、出てこなかった。唇が震えただけで、息しか出ない。アルノは暗い硝子の先を見ていた。ハンネの折りかけた指も、動かない。壺の青い光が、卓の上の控えの紙を照らしている。子どもの角ばった字で、シュウゲキ、ニシ、ジュウ。


 針は、もう光らなかった。


読んでいただきありがとうございます!

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