第103話 最後の拍
人影の拍から三晩、ズデンカの騎兵が丘の下を回った。
出てきたのは、踏まれた草と、焚き火の跡が一つだけだった。伯の領地から迷い出た牛追いだろう、と騎兵は言った。四晩目、騎兵は西の街道へ出た。雷木を積んだ荷車の列が、ミルデの手前で二度、荷を荒らされていた。柱が足りない。荷車を守れと言ったのは、アルノだった。
* * *
丘の小屋の中は、壺の青い光だけで明るかった。
ミロシュは卓の前に座り、硝子の針の先を見ていた。夜の拍は少ない。ミルデからの控えを二通、峠へ打ち直してからは、針は一度も跳んでいない。見習いの坊主は壁際の藁の上で、大の字になって眠っている。粉屋の次男で、ハンネに符号を習って半年になる。
油の匂いがした。
ミロシュは顔を上げた。小屋の板戸の隙間から、夜風と一緒に灯り油の重たい匂いが流れ込んでくる。外で、柱の根元に何かが当たる音がした。液体が木を叩く音だ。
戸の節穴に目を当てた。月のない夜で、塔の足元に黒い影がいくつも屈んでいる。松明はない。一つ、二つ、五つ、もっと。桶を傾けて、柱の根元に油を回している。
ミロシュは藁の上の坊主の口を手で塞ぎ、耳元で言った。
「起きろ。声を出すな」
坊主の目がぱちりと開いた。塞いだ手の下で、何か言おうとしてもがく。
「外に人がいる。十人くらいだ。塔に油を撒いてる」ミロシュは手をゆっくり離した。「退き口。三度言えるな」
「……小屋の裏の板。溝。綱。沢を峠へ」
「一度でいい。行け」
小屋の裏の、藁束で隠した板を外す。沢へ下りる溝が、闇の中に黒く続いていた。坊主は溝の縁で振り返った。
「ミロシュさんは」
「峠に知らせる。すぐ行く」
「一緒に行きましょうよ。知らせは、峠に着いてから打てば」
「峠に着く頃には、この小屋は燃えてる。燃えたら、峠は何も分からねえ」ミロシュは坊主の背中を押した。「何人で、どっちから、何を持って来たか。それだけ打ったら行く。お前は先に行って、ボルクさんに言え。ミロシュはすぐ来るって」
坊主はしばらく溝の縁から動かなかった。ミロシュがもう一度押すと、ようやく闇の中へ滑り降りていった。綱のきしむ音が、下へ遠ざかる。板を戻し、藁束を寄せて継ぎ目を隠した。外の足音は、まだ柱の周りを回っている。
卓へ戻り、壺の口に手を置いて、銅線の端をつまむ。夜は峠の小屋が線をつなぎ直してあって、丘の拍はそのまま谷の針まで跳ぶ。
行の拍。間。段の拍。
シュウゲキ。
外で、火打ち石の音がした。
ニシ。
壁の板の隙間が、橙色に明るくなった。塔の足元から火が上がる。油の燃える音が、雨の降り始めのように広がっていく。
ジュウ。
戸が蹴られた。閂が一度で鳴り、二度目で割れ目が走る。ミロシュは戸の方を見なかった。ボルクの壁の名前が、目の奥に一列に並んでいた。退き口を使え、と言われた。分かっている。あと一つだけ打てば、峠の者は自分の退き口を使える。
指が、次の文字の最初の拍を打った。
* * *
谷の受け小屋で、ハンネが指を折っていた。
「……ジュウ」
アルノが戸口に駆け込んできたとき、ハンネは膝の上で両手を開き、次の拍を待っていた。寝間着の上に外套を引っかけ、裸足のまま領主館から走ってきたアルノの胸が、大きく上下している。
「丘ですか!」
「丘から。シュウゲキ、ニシ、ジュウ」ハンネは針から目を離さなかった。
「襲撃……十人、ですか!? ジュウって、十人ですよね!?」
「まだ続いてる。ジュウの後に、何か来る」
針の先で、青い火花が跳んだ。
ハンネの指が一本、折れる。次の文字の、行の拍の一つ目。
アルノは卓の端を掴んで、針を見つめた。行の拍の二つ目が来るか、間が来るか。間なら一文字目が決まる。油か、火か、剣か。
来なかった。
ハンネの指が二本目を折りかけたまま止まっている。硝子の針の先は暗いままで、小屋の中には壺の青い光と、二人の息の音しかなかった。
「……間、ですか」アルノは言った。「今のは、間ですよね。ハンネさん」
ハンネは答えなかった。針の先を見たまま、折りかけた指の形を崩さない。
「ミロシュさん、間をいつも長く取るんです。丁寧だから。ね、ハンネさん、そうですよね」
「いつもの間は、拍一つ分」ハンネは針から目を離さずに言った。「二つ分なら、段が替わる。三つ分なら、文字が終わる」
「今のは」アルノの声が掠れた。「今のは、何ですか」
ハンネは指を折りかけたまま、首を小さく横に振った。
アルノは針を見つめた。硝子の先の、暗い一点を。
光ったら数える。音が来るまで数えたら、もう怖くない。次の拍が来るまで数えていれば、来る。来たら、丘で何が起きているかが分かる。
「いち」
針は暗い。
「に……」
声が、喉の奥でつまずいた。
三つ目の数が、出てこなかった。唇が震えただけで、息しか出ない。アルノは暗い硝子の先を見ていた。ハンネの折りかけた指も、動かない。壺の青い光が、卓の上の控えの紙を照らしている。子どもの角ばった字で、シュウゲキ、ニシ、ジュウ。
針は、もう光らなかった。
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