第97話 甘い雷
春の半ばの午後、アルノは湿地の縁に立った。ひと冬ぶりに、自分の足で立って見る空だった。雪は尾根の北の陰にだけ残り、湿地の葦は根元から青くなり始めている。南の湖の上で、雲がむくむくと背を伸ばしていた。底が暗く、頭が白い。雷を抱いた雲の形だった。
少し離れた土手に、子どもたちが並んでいた。雷見の旗の係の子たちだ。ハンネが真ん中にしゃがみ、小石の壺を膝に抱えている。
「一本だけだよ」隣でベアタが言った。手には脈を書きつけた紙の束を持っている。冬のあいだ一度も見せてくれなかった紙だった。
「一本だけです!」アルノは大きく頷いた。
「喜ぶんじゃないよ。あたしが許したのは、あんたの心臓が元に戻ったからじゃない。一本くらいなら、戻ってるかどうかが分かるからだ」ベアタは紙をめくった。「呼んで、分けて、外へ通す。体に残すのは、指から肘まで。それより奥に入れたら、次の一本は夏まで無しだ」
「はい。肘まで、ですね」
「ハンネ、賭けてる」土手から声が飛んだ。「領主さまが、数え出すほうに」
「数えません! 今日は、ちゃんと……」
雲の底が光った。口のほうが、先に動いていた。
「いち、に、さん!」
土手の子どもたちが一斉に笑った。ベアタが溜め息をついた。音が来た。遠くて、低い。
「……来ます」アルノは左の人差し指を空へ上げた。屋根裏で、雷が鳴るたびにやっていた挨拶だった。指先に、青い粒を一つ灯す。ぱち、と鳴った。胸がどきどきしている。拍がつまずかないか、自分で数えそうになって、やめた。今は、空のほうを数える。
二度目の光が、真上から来た。白い線が指先に触れた、と思った瞬間には、それはもう肘を撫でていた。腕の内側を、冷たい水が一筋流れるような感触だった。アルノは肘の手前でそれを掴み、ほどき、湿地のほうへ放した。細い筋がいくつも、葦の間の水面へ散っていく。水が一斉に白く跳ねて、湯気が上がった。
体の奥へは、何も入ってこなかった。胸の中で拍が鳴っていた。速い。けれど、つまずかない。舌の奥に、味が残っていた。
「……甘い」
焦がした蜂蜜の味。谷に着いた日の草地で知ったのと、同じ味だった。
ベアタが手首を取り、しばらく黙って数えてから、紙に一行書き足した。「夏まで、一日一本。それ以上は、あたしが見てる前でだけ」
「はい!」
アルノの返事と同時に、土手でハンネが小石を一つ壺に落とす音がした。アルノは振り返った。湿地の向こうの峠道を、荷車が一台、下りてくるところだった。御者台の脇を歩く人影が、帳簿を小脇に抱えている。
「おい、走るんじゃないよ!」
ベアタの声を背中に聞きながら、アルノは早足で湿地の土手を下りた。走ってはいない。走りたいのを、膝で止めていた。峠道の下で荷車が止まり、人影が帳簿で日を遮ってこちらを見た。遠くて顔は見えない。見えなくても、眉を寄せているのは分かった。
* * *
イルゼは谷に着いても何も言わなかった。荷車から空になった木箱を下ろし、騾馬を放し、帳簿を抱えて領主館の卓に座った。ミルデで何があったか、アルノが訊く前に帳簿を開いて、麦の袋数と、手形の枚数と、壺の残りを読み上げた。読み上げただけだった。組合の広間の話も、橋の上の話も、しなかった。
ヴォルタが卓の上に跳び乗り、帳簿の上に座った。「どけ。ミルデの勘定が見えねえ」
獣は動かなかった。イルゼは帳簿ごと獣を横へずらし、向かいのアルノを見上げた。
「立ってんじゃねえか、坊ちゃん」
「今日、一本だけ呼びました! ベアタさんの前で」
「知ってる。峠から見えた。湿地が湯気噴いてた」イルゼはペンを取った。「で、心臓は」
「つまずきませんでした。一回も」
イルゼは返事をせず、帳簿の端に小さく何か書いた。アルノは卓に身を乗り出した。
「手形、使えたんですよね! 紙で麦が買えたって、拍で読みました!」
「紙で買ったんじゃねえ。ハルデンの銅で買ったんだ。紙は、銅の影だよ」イルゼは帳簿の間から、使い残しの一枚を抜いて卓に置いた。オスヴィンの細い署名が裏に透けている。「影を信じてもらえたのは、ハルデンが谷の壺を信じてるからだ。壺が漏れたら、影も消える」
アルノは紙を両手で持ち上げ、窓の光に透かした。「……影なのに、麦になるんですね」
「なるんだよ。貸す側は、そういう影で食ってる」
「イルゼさん」
「なんだ」イルゼは顔を上げなかった。ペン先だけが動いている。
「組合長さんに、三つ訊いたんですよね。窓口の声で」
イルゼのペンが止まった。「……誰に聞いた」
「拍です。ズデンカさんが、宿場の小屋で打たせたって」アルノは寝台の脇から持ってきた紙の束を、卓の上に置いた。手のひらより厚い。受け小屋でハンネが拍から起こした控えを、全部重ねた束だった。「ほかにも、粉屋さんの額と、蝋燭屋さんが戸を閉めたことと、橋の上の人たちと、ヴォルタが壺の上で立ったことと、門の鐘が三つ鳴ったこと。全部、ここにあります」
イルゼは束を見た。一番上の紙に、ハンネの字で「モン ヒライタ」とあった。最後の一字だけ、はみ出して大きかった。
「読んだのか。全部」
「全部です! 寝てるあいだ、ほかにすることがなかったので」アルノは束の端を指で弾いて、胸を張った。「イルゼさんの拍、全部数えました! 三百十二通です!」
イルゼは長いあいだ黙っていた。それから、帳簿で卓を一つ叩いた。
「数えんな」
ペンを取り直し、帳簿の新しい行に何か書きつける。書きながら、顔を上げずに言った。
「……料金、取るぞ」
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