第96話 門の開く日
市の日の朝、ミルデの川には霧が這っていた。
石橋の欄干が、霧の中から肋骨のように浮いている。橋の向こうの門はまだ閉じていた。閂の太い影が、門扉の真ん中に横たわっている。
門の中、参事会の小さな広間では、夜明けから決めごとが続いていた。ミルデの古い定めでは、市の日の門は門銭を払う荷車ならすべて通す。閉じるには参事会の票がいる。組合は冬の終わりに票を集め、谷の品にだけ門を閉じた。今朝の参事会は、その門をこの市の日も閉じ続けるかを決める。
イルゼは広間には入れない。入れるのは、組合の者と町の者だけだった。その代わり、昨夜のうちに三軒の戸を叩いていた。
川下の粉屋。橋のたもとの塩屋。参事会の末席に座る、古い蝋燭屋。控え帳の頁で赤く丸をつけた名前だった。三人とも、ラッセル商会に借りがない。三人とも、この冬、麦を持ち込む村の荷車が門の外で止まるのを、店の窓から見ていた。
「門の外で麦が売れると、門の中の粉屋に麦が来ねえ」イルゼは三軒とも同じことを言った。「組合は谷を締めてるつもりで、あんたたちの店の前の道まで締めてる。あたしの味方をしろとは言わねえ。自分の店の前を開けな」
粉屋は額の傷に手をやって、黙って頷いた。塩屋は二度値を訊いてから頷いた。蝋燭屋は最後まで聞いて、一言だけ言った。
「借りのない者は、借りのある者より、声が小さいものでね」
そして、戸を閉めた。
* * *
霧の中を、荷車の列が橋へ向かっていた。先頭の荷車の脇をイルゼが歩き、ズデンカの五騎が両脇を固め、後ろにアダルベルトの村の車が続く。
「いるな」ズデンカが馬上で目を細めた。「橋の上。三歩ずつだ」
「数は」
「霧で見えない。この前と同じくらいだろう」
「こっちの勘定で足りるか」
「足りない」ズデンカは短く言った。「喧嘩ならな。喧嘩じゃないなら、知らない」
「喧嘩じゃねえよ。市だ」イルゼは荷車の脇を歩きながら、壺の山を振り返った。ヴォルタは箱の上で目を閉じている。「あんたは、門が開いたら真っ先に渡れ。開くまでは、槍を上げるな」
「開かなかったら」
「そのときは、あたしの読み違えだ。帳簿に付けとく」
* * *
橋の真ん中に、男たちが並んでいた。
布で顔を覆っている。革を張った木の盾、棍棒、短い槍。互いに三歩ずつ離れて横に並び、橋の幅いっぱいを塞いでいた。
頭は、盾の列の後ろで霧の向こうを見ていた。雇い主の言ったとおりだ。雷使いは谷で寝ている。冬に雷を呼びすぎて倒れ、春の半ばまで起きられない。晴れた朝の、谷から四日の町で、雷はどこからも降ってこない。
壺はある。壺の雷なら、去年の夏の窪地で見た。青い糸が走って、手下が倒れた。だが壺を開ける手がなければ、あれはただの光る焼き物だ。
橋を渡らせるな。参事会が決めるまで、誰も通すな。決まったら引け。それが今日の仕事だった。
霧の向こうで、車輪の音がした。
霧の中から現れたのは、騾馬の荷車だった。木箱の上に壺が山と積まれ、青い光が霧を内側から照らしていた。その後ろに、麦を積んだ荷車の列が続く。村の者たちの荷車だ。両脇を黒い羽根の騎馬が固めている。
荷車が橋の手前で止まった。御者台の脇に、女が一人立っていた。取立屋上がりの財務官だ。女は盾の列を見て、帳簿を小脇に抱え直した。
「市の日だよ。通しな」
「参事会が決めるまでは、誰も通らない」頭は布の下から言った。「決まるまで待て。待てないなら、帰れ」
「待つよ。待つのは得意だ」女は荷車に寄りかかった。「ただ、あんたの雇い主は、決まったあとのことまで払ってくれてんのか。そこは確かめといたほうがいい」
頭は答えなかった。
その代わりに、手を上げた。盾の列が、半歩前へ出た。黒い羽根の女が馬の上で槍を低くした。村の荷車の御者たちが、手綱を握り直した。
そのとき、壺の山の頂で、何かが立ち上がった。
白い獣だった。山猫とも狼ともつかない体が、壺の上で背を丸め、毛を逆立てる。逆立った毛の一本一本の先で、青い火花が弾けた。ぱち、ぱち、と鳴っていた音がひと息ごとに速くなり、やがて一つながりの唸りになった。獣の足の下で、壺の青い光が脈打つように明るくなる。霧の粒が、獣の周りだけ青く光った。
盾の列の端の男が、一歩下がった。
「……おい。雷使いは寝てるはずだ」
誰かが言った。頭も、そう聞いていた。雷使いはいない。だが、雷を食う獣は目の前にいた。あの獣が壺から何をどれだけ引き出せるのか、雇い主は何も言っていなかった。頭は下がらなかった。下がらなかったが、上げた手を振り下ろすのが一拍遅れた。
その一拍に、門の内側で鐘が鳴った。
参事会の鐘だった。一つ、二つ、三つ。市の日の門を開くときの数だった。
門扉の上の見張り台で、門番が閂を外す合図の旗を振った。閂の影が、ゆっくりと門扉の真ん中から持ち上がっていく。軋む音が、霧の川の上を渡ってきた。
門が開けば、橋の上は町の決まりの中になる。町の決まりの中で荷車を塞げば、門番が相手になる。組合の仕事は、門の外の話だった。頭は財務官の女を見た。女は帳簿を抱えたまま、肩をすくめた。
「……引け」
頭の声は低く、迷いがなかった。盾の列が、崩れずに左右へ割れた。
割れた真ん中を、ズデンカの五騎が駆け抜けた。蹄が石を打つ。その後ろを、アダルベルトの村の荷車が一台ずつ渡っていく。麦袋を積んだ車が、壺の山を積んだ車が、市の日を待っていた屋台の車が、霧の中から次々に橋へ入り、開いた門の中へ流れ込んでいく。壺の山の上で、ヴォルタはまだ毛を鳴らしていた。
門の内側の広場で、イルゼは麦を買った。
硬貨は出さなかった。帳簿の間から紙を一枚ずつ抜いて渡した。紙には、この紙を持ってくる者にハルデンの鉱山は秤で銅を渡す、と書いてあり、裏にオスヴィンの細い字の署名があった。ハルデンは春に谷の二型を受け取り、銅で払う。その銅を、先に紙にしてあった。紙は、雪解けの荷の騾馬引きがハルデンから持ち帰った。
「紙で、麦が買えるのか」村の男が紙を裏返した。
「ハルデンへ持ってきゃ、銅になる。銅は、どこでも麦になる」イルゼは次の一枚を抜いた。「持ってくのが面倒なら、谷の二型を一月借りる札にもなる。好きなほうにしな。——谷の手形だ」
男は紙を懐にしまった。輻を折られた男だった。イルゼはもう一枚重ねた。
「車と麦の分だ。門が開いた日だからな」
後ろにいた塩屋が、自分の分の麦も量ってくれと言い出した。門の脇から、門番が槍の柄を鳴らして怒鳴った。
「おい、取立屋! 門銭がまだだぞ。荷車一台ごとにだ!」
「払うよ。……手形でいいか」
「硬貨で払え!」
イルゼは舌打ちして、帳簿の紐の下から銅貨を数えて出した。門番は受け取った銅貨を掌で鳴らし、鼻で笑った。朝から立ちっぱなしの取立屋に向けた、初めての笑いだった。
市の広場の外れで、槌の音がしていた。町の外壁の角に、ボルクの組が最後の柱を立てている。ヤネクが銅線を柱の頭に巻きつけ、ルドミラの碍子に通して、壁際の小さな小屋へ引き込んだ。峠から延ばしてきた線の端が、ミルデの外壁に届いた。
「打つか」ボルクが小屋の戸口で言った。
「打つ」
イルゼは小屋に入り、壺の口に線の端を当てた。離す。当てる。離す。拍を打つ指が、少しだけ震えた。
* * *
谷の受け小屋で、硝子の針が青く跳んだ。
ハンネは指を折っていた。拍を数え、間を数え、段の拍を数える。紙に字を一つ書き、また指を折る。最後の字を書き終えるより先に、ハンネは紙を掴んで小屋を飛び出した。雪解けの泥を跳ね上げて領主館まで走り、半地下の戸を蹴るように開けて、寝台の脇に転がり込んだ。
「領主さま!」
「はい!?」
「ミルデから! ミルデの、壁の小屋から!」ハンネは紙を頭の上に掲げ、息を吸い込んだ。「……『門・開いた』!」
アルノは枕の上で目を見開いた。
「イルゼさんの拍ですか!?」
「イルゼの。打ち方、下手。でも、イルゼ」ハンネは紙を寝台に叩きつけ、両手を突き上げた。「今日のいちばん!」
アルノは枕に頭を沈めたまま、毛布の上で指を折っていた。一通、二通。この十日で届いた拍を、始めから数え直している。指が足りなくなって、右手を開き、また折り始めた。
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