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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第10章 封鎖破り

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第95話 杖の足

 戸を叩く音が三つして、返事をする前に戸が開いた。樽屋の年寄りが立っていた。右手に雷木の杖をつき、左脚は膝から下を添え木ごと布で巻いている。後ろで、同じように杖をついた孫が、祖父の背中を支えようとして手を払われていた。


「年寄りが、寝てる若いのを見舞うもんじゃねえって、言ったんだけど」孫が言った。


「見舞いに来たんじゃない」年寄りは丸椅子に腰を下ろし、杖を膝の間に立てた。「脚が歩けるようになったから、歩いてみただけだ。ここがいちばん近かった」


 アルノは寝台の上で体を起こしかけ、ベアタに言われていたことを思い出して、枕を背中に挟むだけにした。


「歩けるようになったんですね! よかったです!」


「走れはしない。走る用もない」


 前の冬、孫の脛の爪痕が治ったら頭を下げに来い、と年寄りは言った。アルノは下げた。今日、年寄りのほうは下げなかった。下げる気配もなく、窓のほうを見ていた。


 半地下の窓は、地面の高さに空を切り取っている。雲が一つ、南から流れてきていた。まだ小さく、底が平らで、湖の上でゆっくり膨らもうとしている。


「育ちますね、あれ」


「育つな」


 二人は同じ窓の同じ雲を、しばらく黙って見ていた。


「わしは、見たぞ」年寄りが窓を見たまま言った。「堰の閂が抜けて、水が平地に広がって、そのあと正午が来た。脚を挟まれて、水門の脇で寝転がったまま見た。谷の昼で、谷の者が守られるところを」


「……はい」


「それだけだ。礼を言いに来たんじゃない」


 戸の外で、軽い足音がした。ハンネだった。受け小屋から駆けてきて、息も整えずに紙を読み上げる。この十日、日に何度も繰り返されていることだった。


「ミルデの市。六日目。客、七。粉屋、額、治った。……イルゼ、組合、行った。断った」


 アルノは毛布の上で指を一本折った。ハンネは二枚目の紙をめくった。


「峠の線。柱、宿場の先まで。ボルク、雨の日は打たない。……ズデンカ。馬、一頭、脚。頭、見つけた。追わない」


 二本目、三本目と、アルノは指を折っていく。打ち返したくて、右手の指が勝手に卓の縁を叩きかけた。叩く前に、毛布の中へ押し込んだ。読み上げが終わると、ハンネは紙を寝台の脇の卓に重ねた。紙の束は、もう手のひらの厚さになっていた。


「返事は」


「ありません」アルノは言った。「イルゼさんが決めて、ボルクさんが決めて、ズデンカさんが決めてます。私が拍を打ったら、邪魔です」


「ごはんの一通は、打った」


「あれは……あれは、邪魔じゃないほうのです!」


 ハンネは肩をすくめ、また受け小屋へ駆けていった。入れ違いに、ベアタが道具箱を提げて入ってきた。寝台の脇の年寄りを見て、眉を上げた。


「病人の部屋に、病人がもう一人。騒がしいと思ったら」


「わしは病人じゃない」


「脚を布で巻いてる者は、あたしの帳面じゃ病人だよ」ベアタはアルノの手首を取り、黙って数えた。それから年寄りの手首も取った。年寄りは払おうとしたが、ベアタの指のほうが早かった。「……年寄りのほうが、脈が正しい」


「ひどいです!」


「本当のことだよ。数は嘘をつかない」ベアタは紙に二行書き、道具箱を閉じた。「話すのはいい。起き上がるのは、あたしがいいと言ってから」


 ベアタが出ていくと、年寄りはふんと鼻を鳴らした。


「寝てる領主にしては、口が回る」


「寝てると、口しか回らないんです。樽屋さんこそ、脚が治ったなら仕事してください。春の樽、足りてませんよね」


「わしの脚が治ったのは、お前の雷のおかげじゃない」


「知ってます! 樽屋さんが自分で治したんです。だから、樽屋さんが自分で樽を作ってください」


 孫が戸口で吹き出し、年寄りに睨まれて口を押さえた。


 年寄りは杖に両手を重ねて、部屋の奥の棚を見た。棚の上に、二型の壺が一つ置いてある。夜の灯りにと、ベアタが置いていった物だった。冬に満たして、今は青い光が底のほうで翳っている。


「あれは、漏れるのか」


「ひと月で、一割くらいです。前のよりずっといいんですけど」


「漏れるなら、樽で囲え」


 瞬きをするアルノに、年寄りは杖の先を向けた。「壺は焼き物だ。焼き物は、叩けば割れる。騾馬の背で揺られて、割れなくてもひびが入る。ひびから漏れる」年寄りは杖で床を叩いた。「樽は割れん。板を重ねて箍で締めりゃ、揺れても締まるだけだ。雷木なら、鉄の箍は要らん。銅でいい」


「……雷木の樽!」


 アルノの指が、毛布の上で勝手に動き出していた。板の厚さ、重ねる数、壺をいくつ抱かせるか。雷木の板なら、尾根の麓の立ち枯れがいくらでもある。銅は、ハルデンの春の分がある。起き上がろうとして胸がつまずき、枕に戻った。年寄りが呆れたように首を振った。


「寝てろ。考えるのは、立てるようになってからでいい。樽を削るのは、わしの手だ」


 年寄りは杖を突いて立ち上がった。戸口で、孫の肩に一度だけ手を置いた。


「樽屋さん」アルノは呼び止めた。天気帳のあの頁の、空いた一行が頭にあった。「お名前を、教えてもらえませんか」


 年寄りは振り返らなかった。


「名前か。……樽屋でいい。樽ができたら、樽に書く」


読んでいただきありがとうございます!

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