第93話 細工通りの手入れ
エーミルの徒弟が市へ走ってきたのは、三日目の朝だった。
まだ声変わりもしていない少年で、息が切れて言葉にならない。イルゼは市をズデンカに任せ、少年の襟首を掴むようにして門をくぐった。谷の品を持っていない者は、門番も止めない。
細工通りは、朝の早い職人の町だった。どの工房も戸口に鉋屑や硝子の粉を掃き出していて、通りの石畳がうっすらと光っている。その通りの半ば、エーミルの工房の前に、人垣ができていた。戸は開け放たれ、戸口に組合の前掛けの男が二人立っている。一人は市に来たあの検め役だった。
検め役はイルゼを見ると、紙を広げて見せた。
「無許可の炉だ。組合の鑑札のない炉で、町の中で売り物を焼いてはならない。ミルデの古い決まりだ」
「エーミルは、組合を抜けて十年だ。その間、何も言われなかったろ」
「自分の使う物を焼くだけなら、見逃してきた。だが、あれは売り物だ」
「ここじゃ一つも売ってねえ」
「売り先がどこでも、焼いたのはこの町の中だ」検め役は紙を畳んだ。「決まりは決まりだよ。取立屋なら、分かるだろう」
分かった。分かったから、イルゼは何も言い返さなかった。決まりを先に読んで、決まりの内側から来る。それがいちばん手強いことを、窓口にいたころから知っていた。
中に入ると、床に硝子が散っていた。
踏み割られた芯だった。雷硝子を細く削り、二重に巻いて焼いた二型の芯が、何十本も粉になって床の板の目に詰まっている。壁の釘には、何も掛かっていなかった。釘の周りの煤けた壁に、壺の型の形だけが白く残っている。秋にアルノとエーミルが何度も割って、ようやく一月もつようになった型だった。
エーミルは作業台の前に座っていた。怒鳴りもせず、割れた芯のかけらを一つ窓の光にかざしていた。
「型は、持っていかれた。芯の残りは、この通りだ」エーミルは言った。「炉には封をされた。火を入れたら、次は工房ごとだそうだ」
「……型は、また彫れるか」
「彫れる。ひと月あればな。炉は、町の外に借りればいい。門の外なら、組合の鑑札は要らねえんだろ」エーミルは初めて口の端を歪めた。「あんたの市の決まりを、俺も使わせてもらう」
徒弟が、作業台の下から小さな布の包みを引っぱり出した。中に、芯が三本だけ無事に残っていた。手入れの男たちが踏み込む前に、少年が咄嗟に隠したのだという。イルゼは包みを受け取り、少年の頭を帳簿で軽く叩いた。
「あんた、いい取立屋になるよ」
「なりたくないです」
「賢いな」
エーミルはかけらを台に置き、話を戻した。「それより、表だ。見張りの二人が、朝から一人もいない。手入れの前の晩から、いなかった」
イルゼは戸口の外を見た。路地の角の、いつも前掛けの男が立っていた場所に、誰もいなかった。見張りは、隠す物がなくなったから消えた。そう言い切れる証拠は、どこにもなかった。
「すまねえ。あんたの炉まで巻き込んだ」
「巻き込まれたのは、あんたが取り立てを待ってくれた日だ」エーミルは床の粉を靴で寄せた。「芯は、谷で削っておいてくれ。巻くのは、俺がやる」
* * *
その夜、門の外の市が荒らされた。
イルゼは荷車の脇で、毛布にくるまって眠っていた。耳元で、ぱち、と鳴った。壺の山の上でヴォルタが立ち上がり、毛を逆立てていた。暗がりの中で、いくつもの影が走り去っていく。
荷車は無事だった。近づいた影は、獣の毛の鳴る音で逃げたのだ。荒らされたのは、イルゼの隣に屋台を並べた者たちだった。アダルベルトの村の荷車は車輪の輻を叩き折られ、麦袋が裂かれて泥の中へ撒かれていた。夜に壺を取りに来た川下の粉屋は、橋のたもとで殴られて、額を切っていた。
「顔は見てねえ。布で覆ってた」粉屋は額を押さえながら言った。「散らばって来た。一人ずつ、間を空けて」
「壺は」
「……割られた。抱えて走ったんだが」
アダルベルトの村の男が、折れた輻を抱えて座り込んでいた。昼に麦と壺を替えた、あの男だった。
「村長に、何て言やいい。麦を半分泥に撒かれて、車を一台潰されて、手に入ったのは光る壺が一つだ」
「谷が払うって言え」イルゼは即座に言った。「車の修繕と、撒かれた麦。あたしの帳簿に付けとく。払う日は、書いてやる」
「……いつだ」
「門が開いた日だ」
男はイルゼの顔を見て、何か言い返そうとして、やめた。折れた輻を荷台に放り込み、黙って残りの麦袋を拾い始めた。
谷の品を売る者でなく、谷の品を買った者を打つ。明日から、この市に来る客は減る。来た客の損は、谷の帳簿に載る。イルゼは泥の中の青い破片を拾い上げた。光は、もう残っていなかった。
ズデンカは夜明けまで戻らなかった。帰ってきたとき、五騎のうち一騎の馬が脚を引いていた。ズデンカは馬から下り、泥の中の麦を一掴み拾い上げて、指の間から落とした。
「追わせなかった。向こうは二十。こっちは五つだ」
「分かってる」
「一つだけ見た。逃げるとき、頭が布を下げて振り返った」ズデンカは空を見た。東の空が白んでいる。「手下を、三歩ずつ空けて走らせてた。あの走らせ方は、前にも見てる」
イルゼは顔を上げた。
「去年の夏、峠の西の街道で、硝子の箱を担いだ連中とすれ違った。あたしたちが谷へ戻る前の話だ。先頭を歩いてたのが、あの男だ。……あんたたちの荷を奪った奴だ」
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