第91話 鍵と帳簿
雪解けの水が、半地下の窓の縁を一滴ずつ叩いていた。アルノは寝台の上でその音を数え、百を越えたところで自分に呆れてやめた。やめても、胸の中の拍のほうは勝手に数を刻む。ときどき一つ、段を踏み外すようにつまずく。そのたびに天井が遠のいて、また戻ってくる。
ベアタは朝と晩に来て手首を取り、紙に何か書きつけて帰っていく。その紙を、アルノは見せてもらったことがない。
あくる朝、戸が開いてイルゼが入ってきた。帳簿と、封の切れた書状を二通抱えている。寝台の脇の丸椅子を足で引き寄せて座り、卓の上に書状を並べた。一通は秤と麦束の封蝋。もう一通には封蝋が三つ並んでいた。
「起きてるな。寝たふりしても、指が動いてたぞ」
「……雫を数えてました」
「数えんな。心臓に響く」イルゼは帳簿を膝に開いた。「ズデンカの持ってきた話と、組合の封書と、あたしの勘定を合わせた。聞けるか」
「聞けます!」
声を張った途端に胸がつまずいて、アルノは枕に頭を戻した。イルゼは眉ひとつ動かさず、指を一本立てた。
「一つ。ミルデの門は、谷の硝子と壺を通さない。門番が荷を開けて、青く光ったら追い返す」
二本目が立った。
「二つ。組合の者は、谷に麦も塩も銅も売らない。これは秋からだけど、今度は組合の外の粉屋にまで回状が回ってる。売ったら組合の秤を使わせねえってな。三つ。エーミルの工房の角に、見張りが二人。昼も夜もだ。四つ」親指が折られた。「組合の金貸しは、谷の証文を受け取らない。どこの両替屋に持ってっても、ザーラの名前を見たら首を振る」
「……ひどいです」
「ひどくねえよ。上手いんだよ」イルゼは指を畳んだ。「一つずつなら抜け道がある。四つ並ぶと、谷は金も物も言葉も、ミルデで一つも動かせねえ。で、爺さんの狙いはここだ」
イルゼは秤と麦束の封書を裏返した。末尾に、事務の整った字で一行あった。雷信の線と符号を組合が引き取るなら、門はその日に開きます。
アルノは天井を見た。秋に、組合の広間の大秤に壺が一つ載っていた。アンゼルムがその肌を指で弾いた音を、まだ覚えている。
「売りません」
「知ってる。だから、あたしが行く」
イルゼは三つの封蝋の書状を指で叩いた。「こっちは評議会だ。峠の守りの件で、夏至までに保持者の申し開きを聞くから出てこいってさ。起きられねえ保持者の代わりに、返事はあたしが書いて峠から早馬で出す。……それしかできねえ」
「麦は、どれくらいもちますか」
「峠の泥が乾くまでだ。乾いたら、倉の底が見える」
それからイルゼは谷の割り振りを口にした。ボルクは峠からミルデへ向けて線を延ばす。柱はヤネクが削り、碍子はルドミラが焼く。ズデンカの隊は半分を線の護衛に、五騎を荷車に付ける。ハンネは受け小屋に詰めて、届いた拍を全部ここへ読みに来る。ベアタは——
「この寝台に坊ちゃんを縛りつけとく係だ。本人の了承は取ってある」
「私の了承は……」
「要らねえ」
アルノは笑おうとして、息を深く吸いすぎた。胸の中でまた拍がつまずく。イルゼの目が、帳簿から一瞬だけ上がった。
「持ってくのは、ハルデンの分を引いた残りの二型だ。門の中で売れねえなら、門の外で売る。麦はどっかで買う。線の端ができたら、そこから拍を打つ」イルゼは膝の上で帳簿の紐を締め直した。紐の先に、雷木の鍵が結んである。谷の金庫の鍵だった。「鍵も持ってく。中身は帳簿の上にしかねえけどな。……坊ちゃん」
「はい」
「文句があるなら今言え。出たら、あたしは戻るまで谷の金を勝手に使う。あんたの署名なしでだ」
アルノは首だけ動かしてイルゼを見た。去年の秋、商会の召還状の裏に、財務官の署名のない支払いは無効、と書いた人の顔だった。
「……イルゼさんが、決めることです」
「前にも聞いた」
「はい。だから、もう一つ足します」アルノは毛布の下で右手を握った。左手の二本の指は、握っても何も伝えてこない。「行ってください」
イルゼは返事をしなかった。立ち上がり、丸椅子を足で元の場所へ戻して、戸口で一度だけ振り返った。
「寝てろよ。数えるのは、ハンネの読み上げだけにしとけ」
* * *
翌朝、峠の坂を荷車が上っていった。
騾馬が二頭。藁を詰めた木箱の中で、二型の壺が青く眠っている。前後を黒い羽根の五騎が挟み、御者台の脇をイルゼが歩いていた。雪解けの坂はぬかるんで、車輪が泥を跳ね上げる。帳簿の紐に結んだ鍵が、歩くたびにイルゼの胸の前で揺れた。
寝台からは坂が見えない。代わりに、ハンネが窓の外にしゃがんで、見たままを言った。
「もう二つ目の曲がり角。イルゼ、振り返らない」
「そうですか」
「ボルクが、坂の上で手を上げた。イルゼ、上げない」
「……イルゼさんらしいです」
「あ」
「なんです!?」
尾根の岩の陰から白い影が跳んだ、とハンネは言った。坂を一息に駆け下り、木箱の上に音もなく飛び乗って、壺の青い光の上で体を丸めたという。毛が帯電して、ぱちぱちと鳴るのが峠の下まで聞こえた。
イルゼは荷車を止めなかった。振り返りもせずに言った声も、雪解けの谷ではよく通った。
「……勝手に乗んな。餌代、払えよ」
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