第90話 雪解けの知らせ
目を開けると、天井が近かった。施療部屋の寝台だった。窓の板が半分開いていて、その隙間から、水の滴る音が聞こえた。軒から、ぽた、ぽた、と。雪の解ける音だった。
左手を持ち上げようとした。持ち上がらなかった。腕が、自分の物でないように重い。胸の上に、濡れた石を載せられているような重さがあった。
「動くんじゃないよ」
寝台の脇の丸椅子に、ベアタが座っていた。膝の上に、脈の紙を載せている。
「……ベアタさん。診ないって」
「診てないよ」ベアタはアルノの手首を取り、目を閉じた。「脈を数えてるだけだ。数えるのは、あたしの勝手だろ」
数え終えて、ベアタは紙に書きつけた。紙はもう、何枚も重なっていた。
「重く焼けた。心臓が乱れて、昏倒。止まってはいない」ベアタは紙を膝に戻した。「あんたは四日寝てた。今日で、ようやく乱れが半分になった」
「四日……」
「春の半ばまで、起きるんじゃないよ。寝台から足を下ろしたら、あたしが縛る」
「……ベアタさん。三本目、味がしなかったんです」
ベアタの手が、紙の上で止まった。アルノは続けた。
「甘くも、しょっぱくもなくて。何も」
「そうかい」ベアタはペンを取り、紙の端に一行書き足した。「味のしない日は、呼ぶんじゃないよ。次は、たぶん数える暇もない」
天井を見た。窓の外の滴る音を、数えそうになってやめた。
戸口に、イルゼが立っていた。いつから立っていたのか分からなかった。帳簿を胸に抱え、アルノの顔を見て、一度だけ目を閉じた。それから部屋に入ってきて、ベアタの隣に椅子を引いた。
「壺は」アルノは言った。「壺は、どうなりましたか」
「最初に訊くのが、それかよ」
「ごめんなさい。でも」
「足りた」イルゼは帳簿を開かなかった。「あんたが寝てるあいだに、塔にあと二度来た。あんたの三本も入れて、百二十。雪解けの荷で出す。……入れたくなかったけどな」
何か言おうとすると、イルゼが先に、帳簿の角でアルノの額を軽く押した。
「礼を言ったら、料金取る」
「……じゃあ、言いません」
「謝ってもだ」
「……」
「黙ってても取る」イルゼは帳簿を膝の上で開き、何も書かずに閉じた。「ハンネが朝から三回、あんたの顔を見に来た。婆さんを引きずってきたのはあいつだ。起きたら、あいつに言え。あたしじゃねえ」
「ハンネさん、何か言ってましたか」
「賭けに勝った、ってよ。……泣きながらな」
アルノは天井を見たまま、しばらく瞬きをしなかった。
* * *
峠が開いたのは、それから二十日後だった。番小屋の火の合図が、旗の中継を伝って谷へ下りてきた。雪解けの坂を、ハルデンへ向かう騾馬の列が壺を積んで上っていく。
施療部屋の窓の隙間から、アルノはその背中が一つずつ坂の曲がり角に消えていくのを数えていた。数えるだけなら、ベアタも縛らなかった。壺置き場の棚には、まだいくらか二型が残っていた。ルドミラが冬のあいだに焼き足し、アルノが寝ているあいだに塔の雷で灯った分だ。
騾馬の列と入れ違いに、峠を下りてくる者があった。ズデンカだった。峠が開くと同時に、黒羽団の三人を連れて峠の西の見張り小屋まで出ていた。西から来る者を待って話を聞くと言って、三日で戻ってきた。
泥だらけの長靴のまま施療部屋に入ってきて、懐から封書を二通出し、寝台の脇の卓に置いた。
一通は、秤と麦束の封蝋だった。もう一通には、封蝋が三つ並んでいた。
「ミルデの門が、閉まった」ズデンカは短く言った。「谷の硝子と壺は、門を通さない。組合の者は谷に麦も塩も銅も売らない。細工通りのエーミルの工房の前に、組合の見張りが二人立ってる。ミルデから峠を越えてきた行商が、門の前で組合の検め役がそう読み上げるのを聞いてた。これは、同じ日に組合から谷宛てに出た封書だ」
「春に、ミルデの門を閉じることもできる……」アルノは呟いた。秋のエーミルの工房の戸口で、アンゼルムが笑いながら言った言葉だった。
「もう一通は、峠の番小屋で王家の使いから受け取った。評議会の召喚状だ。春の評議会で、峠の守りの件を審議する。夏至までに、保持者の申し開きを聞く」
誰も、しばらく口を開かなかった。軒から、ぽた、ぽた、と水が落ちていた。
イルゼが立ち上がった。帳簿の紐をほどき、紐に結んでいた谷の金庫の鍵を外して、卓の上に置いた。組合の封書と、召喚状と、並べて置いた。三つを、しばらく黙って見ていた。
「狙いは、雷信だ」イルゼは言った。「秋から、爺さんの手はずっと同じだ。壺を締め出して、銅を締めて、今度は門だ。谷が干上がって、線を組合に売るって言い出すまで、締め続ける。それも、あんたが寝てる今を選んで来た」
「……はい」
「伯爵もだ。夏至まで。あんたが起きられるのは、春の半ば」
「私が、這ってでも——」
「縛るよ」ベアタが紙から目を上げずに言った。
イルゼは鍵を取り上げた。指先で重さを確かめる。去年の秋、四枚しか入っていない箱の鍵を受け取ったときと、同じ手つきだった。鍵を帳簿の紐に結び直し、胸元にしまった。
「あたしが行く」
アルノは目を閉じていた。まぶたが重かった。胸の上の濡れた石は、まだそこにあった。それでも、声は出た。
「……数えて、待ってます」
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【第9章「閉じた谷の声」のあらすじと登場人物】(第81〜90話)
■あらすじ
雪に閉ざされた谷へハルデンからの雷信が初めて外の声を届け、イルゼはその値を元手に最初の「貸し」を結ぶ。だが氷雨で線が切れて違約金を負い、誘雷塔を建てても壺は足りず、アルノは禁を破って倒れた。雪解けには組合の封鎖と評議会の召喚状が届き、イルゼが自ら行くと告げる。
■登場人物
◆アルノ・ブラウエン
谷を預かる保持者。一本の雷を十に分けて壺を満たし、自分の体を通さずに雷を受ける誘雷塔を考え出した。だが足りない四十の壺のためにベアタの制止を振り切り、味のしない三本目で倒れる。寝台から「数えて、待ってます」とイルゼを送り出した。
◆イルゼ
谷の財務官。雷信の値が組合より三日早いと見抜き、坑夫の家に壺を貸して春の銅を押さえた。帳簿の新しい頁に大きく書いた見出しは「貸し」。アルノの無茶には取立ての敬語で詰め寄り、倒れた彼の胸に耳を当てて拍を数えた。
◆ハンネ
受け小屋で拍を読む係の頭になった十一歳の子。ハルデンからの最初の一通を板に写し、イルゼの長い文面を半分に削って壺を節約させた。夜明けに出ていくアルノを見送るしかなく、ベアタを起こしに雪の中を走った。
◆ベアタ
谷の医師。脈の紙に乱れの印を並べて「連日は、足し算だよ」と告げ、呼ぶなら診ないと突き放した。それでも倒れたアルノの枕元に座り、「脈を数えてるだけ」と付き添う。味のしない日は呼ぶな、と新しい言いつけを加えた。
◆ボルク
峠の守りの長。塔守のミロシュに崖の雪穴と縄の退き口を三度言わせ、「壺は、また焼ける。お前は焼けん」と教えた。誘雷塔には顔をしかめつつ人を伏せる溝を掘らせ、氷雨のあとは線を七日歩いて切れ目四十か所を持ち帰った。
◆ミロシュ
峠の番小屋でハルデンの拍を受け、谷へ打ち直す若い塔守。伯領の村から逃げてきて、見張りの岩で脚を射られた。打つのはハンネより一拍遅いが、間違えない。母と妹の住む村が見える丘に、いつか塔を立てたいと願っている。
◆ズデンカ
黒羽団を率いる女頭。線が凍って切れると、壺の数の書き付けを持って氷の尾根を越えた。吹雪で一日遅れ、仲間二人が凍傷を負っても「負けは負けだ」と受け止める。雪解けには、組合の門の封鎖と評議会の召喚状を谷へ持ち帰った。
◆ヤネク
鉄に触れると手が震える鍛冶。震えない銅で、死んだ線を溶かして誘雷塔の冠を七日で打ち上げた。指を十本広げた形にした理由は「数えやすいだろう。領主さまが」。最初の一本を見届けると、溝の縁で自分の手をじっと見ていた。
◆ヴォルタ
谷に棲む白い雷獣。誘雷塔に最初の雷が落ちると、灯った壺めがけて駆け下りてきた。アルノが雪の上に倒れた朝は壺を舐めず、毛を逆立てて、乾いた激しい音を谷じゅうに響かせ続けた。




