第89話 味のしない雷
夜明け前に、風の音で目が覚めた。
北西の風だった。窓の板の隙間から、湖の匂いのする冷たい風が細く吹き込んでくる。寝台の上で身を起こし、アルノはしばらく暗がりの中で耳を澄ませていた。隣の部屋で、イルゼの寝息が聞こえる。ゆうべ遅くまで、帳簿の灯りが戸の下から漏れていた。
外套を着て、音を立てずに戸を開けた。
外は、まだ青黒かった。湖の黒い水から湯気が立ち、尾根の肩に雲が低く育ちかけている。夜明けの冬の雷だった。去年の天気帳にも、同じ朝が二度ある。二度とも、一本が太かった。
受け小屋の小さな窓に、灯りがついていた。戸口の前を通ると、中からハンネの声がした。
「領主さま?」
「起こしちゃいましたか」
「起きてた。夜の番」板切れを膝に載せたハンネが、戸の隙間から顔を出した。アルノの顔を見て、尾根の雲を見て、またアルノを見た。「どこ行くの」
「壺を見に行くだけです」
「うそ。雲、見てた」
「見に行くだけです。ほんとに」
「婆さん、明日呼んだら診ないって言った。ハンネ、聞いてた」ハンネは板切れを胸に抱えた。「賭ける? 領主さまが、呼ぶほう」
「……今日は、賭けません」
ハンネは何も言わずに戸を閉めた。閉まる前に、板を抱えた腕に力が入るのが見えた。
雪を踏んで、塔の足元まで歩いた。壺の輪は、半分ほどが明るく満ちていた。残りの半分は、まだ薄い。薄い壺の口の数を、歩きながら数えた。雲の張り出す向きを見た。東へずれている。今朝の雷は、塔には来ない。
輪の内側、塔の根元の杭の前に立った。
輪の外の雪の上に、白い毛が何本か落ちていた。夜のうちに、ヴォルタが壺を舐めに来たらしい。
「ヴォルタさん、今朝のは、あげられないんです」誰もいない輪の中で、声に出して言った。「ハルデンの人たちの分なので。……一本目。二本目。三本目まで。それで、やめます。ほんとに、やめます」
左手の指先に、火花を灯した。
一本目は、すぐに来た。体の中を熱い水が駆け抜け、胸の奥で筋がほどける。声に出さずに数え、十に分けて、薄い壺の口へ押し込んだ。湯気が噴き上がる。十の壺が、ぼうっと灯った。左腕が肘まで痺れた。
二本目は、間を置いて来た。数えて、分けた。痺れが肩まで上がってきた。ゆうべの残りの震えが、その上に重なる。左手の指が、勝手に曲がったり伸びたりした。
薄い壺が、まだ残っていた。
「……あと、十です」自分の声が、思ったより細かった。「あと十だけ。それで、今朝の分は終わりです。大丈夫。数は、ずっと手前です」
三本目の火花を灯した。指先の火花が、いつもより小さかった。それでも空は答えた。
光った。
熱い水が駆け抜ける。胸の奥で筋がほどける。数えようとした。いち、と。
舌の奥に、何も来なかった。
甘くも、しょっぱくも、冷たくもない。雷が体を抜けるとき、いつも舌の奥に残る味が、今朝は何もなかった。ただ熱くて、ただ白くて、それだけだった。
胸の中で、何かがつまずいた。
どくん、と一つ鳴って、次が来なかった。来ないまま長い間があり、それから慌てたように二つ続けて鳴って、また止まった。分けた筋が壺へ落ちていくのが見えた。何本に分けたのか、分からなかった。
「……いち」
声が、出なかった。唇は動いているのに、喉から先へ、音が出ていかない。
雪に膝をついた。
いち。数えなければ。光ったら、数える。音が来るまで数えたら、もう怖くない。雷鳴が、尾根の上で鳴り始めている。聞こえている。でも、数が出てこない。いちの次が、どこにもない。
屋根裏の、暗い毛布の中だった。窓の外が光って、七つの冬より前の自分が泣いていた。背中を叩く指があった。指と同じ速さで、誰かが数えていた。いち、に、さん。
その声を、思い出そうとした。
言葉は覚えていた。「光ったら、数えるの。いち、に、さん。音が来るまで数えたら、もう怖くない」。一字も違えずに言える。
けれど、その声が聞こえてこない。声の高さも、息の継ぎ方も、「さん」の後で一度笑ったことも、思い出せない。全部知っていたはずなのに、胸の中のつまずきが次々と重なって、声を押し潰していく。
雪の上に倒れた。
頬に当たった雪が冷たかった。目の前で、満ちた壺の口が青く灯っていた。その光の向こうに、白いものがいた。
ヴォルタだった。いつから来ていたのか、壺の輪の外側で、四つの足を雪に踏ん張っていた。毛並みが根元から逆立ち、一本一本の先で青い火花が弾けている。
ヴォル、タ。ヴォル、タ。
毛の鳴る音が、だんだん大きくなった。獣は壺を舐めに来なかった。倒れたアルノの顔を見て、喉の奥で低く唸り、毛を鳴らし続けた。朝の静かな谷じゅうに響くほどの、乾いた、激しい音だった。
遠くで、戸の開く音がした。雪を蹴る足音が近づいてくる。速い。転びかけて、踏みとどまって、また走る。
「どこだ! 坊ちゃん、どこだ! 返事しろ!」
「坊ちゃん!」
寝間着の上に外套を引っかけただけのイルゼが、壺の輪の中へ飛び込んできた。膝をつき、アルノの肩を掴んで仰向けにする。
「おい! おい、起きろ! 何本呼んだ! 言え!」
返事ができなかった。唇だけが、いち、の形に動いた。
「数えなくていい! 本数だよ、本数! ……ちくしょう、この馬鹿」イルゼが振り向いて、谷のほうへ叫んだ。「ハンネ! 婆さん起こせ! 診ねえって言っても引きずってこい!」
「もう走ってる!」受け小屋のほうで、小さな影が雪を蹴って走り出すのが見えた。「婆さん、起きて! 領主さまが、呼んだ!」
イルゼはアルノの外套の前を引きはがし、胸に耳を押し当てた。冷たい耳だった。
イルゼは息を止めていた。
一つ、鳴った。長い間があって、もう一つ。つまずいて、二つ続き、また黙る。
止まっていない。
鳴っている。乱れて、つまずいて、それでも。
「鳴ってる……」イルゼは耳を当てたまま呟いた。「鳴ってんじゃねえか、馬鹿。鳴ってんなら、ちゃんと鳴れよ」
イルゼの唇が動いた。声は掠れて、ひどく口の悪い調子だった。
「……いち」
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