第88話 医者は値切らない
塔は落ちる日を選べなかった。
最初の一本のあと、北西の風は十日のうちに二度吹いた。一度目、雷は塔の冠に来た。二度目は尾根の穂先にばかり落ちて、塔には来なかった。雲の張り出す向きが、ほんのわずかに東へずれていた。
アルノは毎晩、天気帳に塔の頁を書き足した。風の向き。湖の湯気の立ち方。雲がどこまで張り出したか。塔に来た本数と、来なかった本数。来なかった日の頁は、字が小さくなった。塔に来ない日は、溝の縁に伏せて、尾根の穂先に落ちる雷を見ているしかなかった。穂先に一本落ちるたびに、外套のポケットの中で、左の指が勝手に動いた。
イルゼは毎晩、壺を計った。
「雪解けまで、あと二十日と少し」イルゼは施療部屋の卓に帳簿を広げていた。「塔がこの調子で来るとして、満ちるのは三分の二ってとこだ。四十足りねえ」
「違約金が、また……」
「来る。二度目のはもっと重い。坑道の灯りが足りなきゃ、向こうは坑夫を休ませるしかねえからな」
アルノは寝台の端に座り、襟を開いて、ベアタに鎖骨の枝を見せていた。北西の風の日ごとに呼んだ分で、枝は胸のほうへ、爪の先ほどまた伸びていた。
「あと一週間だけ、呼びます」
ベアタの指が、枝の上で止まった。
「北西の風の日だけです。一日に三本まで。塔に来ない日だけ、私が呼んで、塔の壺へ入れます。一週間あれば、四十に届きます」
ベアタは指を離した。道具箱から紙を一枚出して、卓に置いた。
アルノが呼びはじめた最初の日から、毎晩の脈の数が並んでいる。ベアタの細い字で、日付と、数と、その横に小さな印。毎晩同じ炉の脇で書いたのだろう、紙の端が煤で薄く黒ずんでいた。最初の数日は、印が一つもない。塔が立ってアルノが呼ばなかった日には、印が減っている。北西の風の日に呼んだ翌日は、印が二つ、三つと増えていた。
「これが、乱れた拍だよ」ベアタは印を指で叩いた。「一晩寝て、戻りきらないうちに次が来る。戻りきらない分が、次の日に乗る。連日は、足し算だよ」
「でも、一日の数は……」
「あんたが守ってるのは、一日の数だけさ」ベアタは紙をアルノのほうへ滑らせた。「あんたの心臓は、日を跨いで数えてる。……秋に話した二人はね、一日の数を忘れて止まった。あんたは忘れてない。忘れてなくて、これだよ」
紙を見た。印の並びが日ごとに右へ詰まっていく。
「……一週間だけです」
「明日呼んだら、あたしは診ない」
ベアタの声は平らだった。いつもの、数を告げるときの声だった。
「前に一度止まってる。次に止まったら、戻るかは分からない。そう言ったね。あたしは、戻るかどうか分からない心臓を、呼ぶと分かってて診るほど暇じゃない」
「ベアタさん……」
「ベアタさん、じゃないよ」
卓の向こうで、イルゼが帳簿を閉じた。
ゆっくりと椅子の上で背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねる。その顔を、アルノは知っていた。取立ての窓口に座る係の顔だった。
「保持者様」
声が、ひどく丁寧だった。
「一つ、お伺いいたします。その一週間のお代は、どなたがお支払いになりますか」
アルノは唇を結んだ。
「壺四十個分の違約金でございましたら、財務官が王家に頭を下げて、借り入れで埋めることができます。利息は高うございますが、帳簿の上のことでございます。ですが」イルゼは瞬きをしなかった。「保持者様の心臓のお代は、どちらの帳簿にも載っておりません。北風の十日のあと、寝台の上で、保持者様は何とおっしゃいましたか」
「……命では、払いません」
「さようでございます」
「命じゃありません」アルノは顔を上げた。声が震えた。「一日に三本です。ベアタさんの数の、ずっと手前です。紙に印が増えてるのは分かってます。だから一週間だけなんです。一週間で、やめます」
「伯爵様のお手紙を、覚えていらっしゃいますか」イルゼの声は崩れなかった。「冬の谷は雷が少ない。あなたは、呼びすぎるでしょう。……伯爵様の記録どおりに、なさるおつもりですか」
答えられなかった。アルノは寝台の端から立ち上がり、イルゼに向かって、ベアタに向かって、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
下げたまま、動かなかった。
「足りない四十は、谷がハルデンに約束した灯りです。坑夫の人たちの足元です。あの人たちは組合の油の灯りで、去年、三人死んでます。私があと一週間呼べば、届くんです」
頭を下げたまま、首は縦にも横にも振らなかった。
イルゼの膝の上で、重ねた手が白くなっていた。丁寧な顔のまま、唇だけが動いた。
「……頭を下げりゃ済むと思ってんのか、坊ちゃん」
声が、元に戻っていた。アルノは頭を上げなかった。
ベアタは長いあいだアルノの後ろ頭を見ていた。それから脈の紙を畳み、道具箱に入れて、蓋を閉じた。留め金の音が、施療部屋の中で小さく鳴った。
イルゼが何か言いかけた。ベアタは手を振ってそれを止め、道具箱を提げて戸口へ向かった。
戸口で、ベアタは足を止めなかった。振り返りもしなかった。外の冷たい風が一度だけ吹き込んで、戸が閉まった。
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