第87話 誘雷塔
四十か所を直す銅は、谷のどこにもなかった。
「春までは、ハルデンの線は死んだままだ」イルゼは帳簿を閉じた。「雪解けに峠が開いて、銅を買って、柱を立て直して、早くて春の終わりだ」
卓の上に、天気帳が開いてあった。去年の冬の、ほとんど白い頁。その中に一行だけ、字の多い頁がある。峠が閉じて何日目かの午後、尾根の麓、選り場から二百歩ほど東の雪原に、夏の三倍はある太い一本。
その行に指を置いたまま、アルノは顔を上げた。「イルゼさん。死んだ線の銅、使ってもいいですか」
「……何に」
「塔です」天気帳を裏返し、アルノは裏表紙に絵を描きはじめた。
高い柱。その頭に、指を広げた手のような銅の冠。冠から銅の線が柱に沿って足元まで下りてくる。線は柱から焼き物の碍子で浮かせてある。足元で、線は何本にも分かれて、雪の上に並べた壺の口へ一本ずつ伸びていく。
「尾根に落ちる雷は、尖ったところと、金物を好みます。去年のあの一本は、この雪原の、ここに落ちました。湖の水から湯気の上がる日に、北西の風が尾根を越えて、いちばん最初にぶつかる麓です」アルノは絵の柱の根元を叩いた。「ここに、尾根の穂先より高いものを立てます。そうしたら、雷は私が呼ばなくても、塔に来ます」
「呼ばなくても」
「私の体を、通らなくても」
イルゼはしばらく絵を見ていた。「銅は、ハルデンのもんだぞ。春に張り直す線だ」
「春に、張り直します。そのときまでに、この塔で満たした壺で、銅を買います」
「……順番が逆だろ、普通」そう言いながら、イルゼは帳簿を開き、死んだ線の銅の長さを書き出しはじめた。
* * *
ヤネクは銅の冠を、七日で打った。
雷に打たれて鍛冶場を失ってから、ヤネクは鉄に触ると手が震える。けれど銅なら震えない。秋に樽屋の釜を叩いたときにそれが分かって、ヤネクはあとで一人、赤い延べ棒を撫でながら、しばらく声を出さずに泣いた。
今は谷でいちばん銅を叩く男になっている。巻き取った死んだ線を炉で溶かし、金床の上で叩いて、指を十本広げた手の形に仕上げた。
「指は、なんで十本なんですか」
「数えやすいだろう。領主さまが」
ヤネクは槌を置き、冠の指を一本ずつ撫でた。「銅は、いい。黙って曲がる。鉄みたいに、こっちの手を怒らない」
ルドミラは碍子を焼いた。窯を一度に三つ焚き、割れたものは雷紋のある自分の手で一つずつ叩き割って捨てた。
柱は、尾根の麓の林の立ち枯れから、いちばん長い雷木を三本選んだ。村の男たちが雪の上をそりで引き、鉄の釘を一本も使わず、麻縄と木の楔で束ねて継いだ。継いだ柱の頭は麓の岩より高く、見上げると首が痛くなった。
壺は、領主館の裏から塔の足元へ移した。満ちた二十と少しは棚に残し、空の百を、そりで何往復もかけて運んだ。塔の足元の雪を丸くかき分け、壺を輪にして何重にも並べる。下りてきた線は輪の中心で分かれ、分かれた先の硝子の枝が、一つずつ壺の口に差してあった。
峠から下りてきたボルクが、輪の外から塔を見上げて顔をしかめた。
「雷を呼ぶ柱か」
「呼びません! 来てもらうんです」
「同じだ」ボルクは足元の雪を蹴った。「人を寄せるな。溝を掘らせる」
十二日目の夕方、最後の壺の口に枝が差さった。輪の外から、アルノはそれを数えていた。
「百です!」
「知ってる」イルゼは帳簿に丸をつけた。「運ばせたのは、あたしだ」
* * *
北西の風は、その四日後に来た。朝のうちに、湖の黒い水から湯気が立ちはじめた。昼前、尾根の肩の上に灰色の雲が育ち、じりじりと麓のほうへ張り出してくる。雷見の旗の竿に、赤が上がった。
谷の者は、塔から三百歩離れた雪の溝に伏せていた。ボルクが掘らせた溝で、端には谷へ逃げる道の印の杭が立っている。子どもたちは溝の縁から顔だけ出し、大人に襟首を引かれてまた沈んだ。アルノは溝のいちばん前で、両手を外套のポケットに突っ込んでいた。
「出すなよ」隣で伏せたイルゼが、アルノの左の袖口を掴んでいた。指が、袖の布ごと手首を握りしめている。
「出しません」
「火花も灯すな」
「灯しません。今日は、私は何もしないんです」
言いながら、目は塔の冠から離れなかった。雲の底が、冠の真上まで来ていた。暗い。夏の雷の塔よりずっと低く、ずっと重い。冠の銅の指の先が、灰色の空の下で鈍く光っている。
「来なかったら、どうすんだ」
「来ます」
「たぶん、って言わねえのか」
「……来てほしいです」
風が止んだ。一瞬、谷じゅうの音が消えた。湖の湯気が、まっすぐ上へ立った。
光った。
白い一本が、雲の底から冠の真ん中へ突き刺さった。太い。去年の冬の雪原の一本と、同じ太さだった。
冠の十本の指が一斉に青く燃え、光は柱に沿って線を駆け下りた。碍子の一つ一つが、上から順に、青い珠になって灯っていく。柱の足元で、線が分かれた。光も分かれた。何十本もの青い筋が雪の上を走り、輪の外側の壺から、端から順に、口の中へ吸い込まれていった。
壺が、灯った。一つ。十。三十。輪の外側から内側へ、青い光が波のように広がっていく。雪が溶け、塔の足元から白い湯気が立ちのぼった。湯気の中で、百の壺が、ひとつ残らず青く光っていた。
音が来たのは、その後だった。アルノは口の中で数えていた。
「……いち、に、さん!」
雷鳴が尾根にぶつかり、谷の岩壁に跳ね返り、湖の氷の上を転がっていく。音の尻尾が消えるまで、アルノは溝の縁から身を乗り出していた。
誰も焼けていなかった。アルノの手はポケットの中にあった。左の指の先が、ちりちりと冷たいだけだった。震えも、痺れも、胸の奥の重さもない。雷は一本まるごと、誰の体も通らずに、百の壺に入った。
気づくと、アルノは溝から跳び出していた。
「今日のいちばん!」両腕を空に突き上げた拍子に、イルゼに掴まれた袖が引っぱられて、イルゼごと雪の上に転がった。
「呼んでねえのに叫ぶな!」
「呼んでません! 呼んでないから、叫んでるんです!」
雪まみれで起き上がり、アルノは塔を指さした。声が裏返っていた。
「見ましたか、イルゼさん! 誰も焼けてない! 私も焼けてない! あの塔が、全部やったんです!」
溝のあちこちから、人が顔を上げていた。樽屋の孫が、口を開けたまま立ち上がる。ヤネクは溝の縁に座り込み、自分の手をじっと見ていた。ルドミラが、湯気の中で灯っている碍子の列を指で数えている。子どもたちの誰かが「いちばん!」と真似をして、それが溝の端から端へ次々に移っていった。
イルゼは雪の上に座ったまま、帳簿の雪を払っていた。払い終えても、しばらく開かなかった。
「……壺、計ってこい。ハンネ」
「もう計った」ハンネは輪の縁から戻ってくるところだった。硝子の枝を振り回している。「ぜんぶ、灯った。ぜんぶ、うすい」
「うすくても、灯ったんだな」
「灯った」
湯気の向こうの塔を見上げた。冠の指の先で、残った青い火花が一つ、また一つと消えていく。その先の尾根の肩で、雲がゆっくり崩れはじめていた。
湯気の輪の外れ、尾根の麓の林の縁で、白いものが動いた。灯った壺の列の向こうから、ヴォルタが雪を蹴って、まっすぐ壺置き場へ駆け下りてくる。
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