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雷鳴の辺境伯〜借金まみれの『雷の谷』に追放された雷オタクの三男、落雷を資源に変えて最強の辺境を築く〜  作者: 雅龍(がりゅう)
第9章 閉じた谷の声

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第86話 氷の線

 その夜の雨は落ちるそばから凍った。


 屋根の芝を叩く音が、途中から変わった。ぱらぱらという雨の音が、硬い粒の擦れる音になり、やがて何も叩かなくなった。代わりに、外のあちこちから、みしり、みしり、と木の軋む音がした。


 寝台の上で身を起こし、震える左手を右手で押さえたまま、アルノは耳を澄ました。軋みの一つが長く尾を引いて、途中でぷつりと切れた。受け小屋の針は、夜半から一度も跳ばなかった。


 朝、谷は硝子細工になっていた。


 木の枝も、芝の屋根も、雷よけの杭も、透きとおった氷の衣を着ている。峠へ向かう柱の列は、途中で三本が斜めに傾き、一本は根元から折れて雪に突っ伏していた。


 銅線は氷に包まれ、指ほどの太さが腕ほどに膨らんで、柱と柱の間で地面すれすれまで垂れ下がっている。昇ってきた朝日がその氷に当たり、谷じゅうの線が一斉に光った。


「きれい……!」


 アルノは戸口で口を開けたまま、しばらく見とれていた。


「見とれてる場合か」


 イルゼが帳簿を抱えて出てきた。頁の端を、指で強く押さえている。


「ハルデンとの証文、覚えてるか。冬至の翌日までに、雪解けに渡せる壺の数を、線で向こうに知らせる。知らせがなきゃ、子爵は春の灯りを組合の油で手当てして、その差額は谷が持つ」


「冬至の翌日……」


「あと三日だ」


 垂れ下がった線を見た。谷の中だけでも柱が何本も倒れている。尾根を越えた先がどうなっているのか、ここからは見えない。


「私が、峠まで線を見に——」


「その手でか」イルゼはアルノの左手を顎で示した。「椀も持てねえ奴が、氷の尾根を越えるって?」


 戸口の脇から、声がした。


「あたしが行く」


 ズデンカだった。黒い羽根を挿した髪に、氷の粒がついている。黒羽団の三十は、冬のあいだ湖の岸の芝屋根に分かれて住んでいた。


「峠の北から尾根の肩を回って、ハルデンの中継の小屋まで。かんじきで二日。書き付けを持っていく」


「この氷の上をですか!?」


「伯の記録じゃ、あたしは雪の日にしか動かないことになってる」ズデンカは空を見上げた。雲ひとつない、冬の朝の空だった。「今日は晴れてる。晴れてるうちに出る」


「数は、何て書く」ズデンカがイルゼを見た。


 イルゼは帳簿を開き、その場で数を書きつけた。今満ちている壺と、これから満ちる見込み。見込みの欄で、ペンが一度止まった。


「……坊ちゃん。この冬、あと何日、呼ぶ気だ」


「北西の風が吹く日は、全部です」


 イルゼはアルノの顔を見ずに、見込みの欄に数を書いた。書き付けを畳んでズデンカに渡すまで、一言も口をきかなかった。


 ズデンカはかんじきの紐を締め直し、干し肉と麦を袋に詰めた。書き付けは油紙で二重に包んで、胸の内側にしまった。昼前、四人を連れて峠へ向かった。氷の張った坂を、五つの影が一列になって上っていく。アルノは戸口に立って、その影が二つ目の曲がり角に消えるまで数えていた。


     * * *


 ズデンカの隊が戻ったのは、七日後の夕方だった。


 番小屋から、ボルクの寄越した若い者が先に下りてきて知らせた。隊は尾根の肩で吹雪に閉じ込められ、雪の穴で二晩をやり過ごした。ハルデンの中継の小屋に着いたのは、冬至の翌々日の朝だった。一日、遅れた。


 戻ってきた五人のうち、二人は肩を借りて歩いていた。ベアタが二人の足の布を解くと、指の先が白く蝋のようになっていた。ベアタは湯を沸かさせ、ぬるいうちに足を浸けさせた。


「熱い湯は駄目だよ。凍えた指は、熱さを分からない。分からないまま煮えちまう」


 ズデンカはオスヴィンの手紙をイルゼに渡した。


 手紙は短かった。子爵は冬至の翌日の日没まで待った。知らせがないので、春の灯りの分を組合の油で手当てする証文に署名した。自分は子爵の前で、帳面を曲げるわけにはいかない。違約金は証文のとおりに請求する。


 最後の一行だけ、字が乱れていた。一日だった。申し訳ない。


 イルゼは手紙を二度読み、帳簿の借りの欄を開いた。違約金の額を書き入れる。前金としてもらった額と、ほとんど同じ数だった。


 卓の端で、アルノは膝の上の左手を押さえていた。


「……ズデンカさん。二人の、足は」


「指は、残るかもしれない。残らないかもしれない」ズデンカは短く言った。「負けは負けだ。一日遅れた。覚えておく」


 イルゼは白紙の頁に手紙の下書きを始めた。宛先は王家財務だった。追加の借り入れを願う。額と、利息と、返す見込みの日付。書き終えて、ペン先で額の数字を二度なぞった。


「どうすんだよ、これ」イルゼは誰にともなく言った。「借金を払うための借金だ。組合の爺さんの手口と、どこが違う」


「私が、もっと呼べば——」


「黙ってろ」


 イルゼは顔を上げなかった。声も荒げなかった。アルノは口を閉じた。


 戸口が開いた。冷たい風と一緒に、ボルクが入ってきた。外套の肩から、氷のかけらがばらばらと床に落ちた。ズデンカの隊が出たあと、ボルクはミロシュと二人で、峠からハルデンへ向かう線を柱ごとに見て回っていた。尾根の肩の先まで、七日かけて。


 ボルクは卓の前で足を止め、帽子を取った。


「切れてるのは、四十か所だ」


読んでいただきありがとうございます!

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