第86話 氷の線
その夜の雨は落ちるそばから凍った。
屋根の芝を叩く音が、途中から変わった。ぱらぱらという雨の音が、硬い粒の擦れる音になり、やがて何も叩かなくなった。代わりに、外のあちこちから、みしり、みしり、と木の軋む音がした。
寝台の上で身を起こし、震える左手を右手で押さえたまま、アルノは耳を澄ました。軋みの一つが長く尾を引いて、途中でぷつりと切れた。受け小屋の針は、夜半から一度も跳ばなかった。
朝、谷は硝子細工になっていた。
木の枝も、芝の屋根も、雷よけの杭も、透きとおった氷の衣を着ている。峠へ向かう柱の列は、途中で三本が斜めに傾き、一本は根元から折れて雪に突っ伏していた。
銅線は氷に包まれ、指ほどの太さが腕ほどに膨らんで、柱と柱の間で地面すれすれまで垂れ下がっている。昇ってきた朝日がその氷に当たり、谷じゅうの線が一斉に光った。
「きれい……!」
アルノは戸口で口を開けたまま、しばらく見とれていた。
「見とれてる場合か」
イルゼが帳簿を抱えて出てきた。頁の端を、指で強く押さえている。
「ハルデンとの証文、覚えてるか。冬至の翌日までに、雪解けに渡せる壺の数を、線で向こうに知らせる。知らせがなきゃ、子爵は春の灯りを組合の油で手当てして、その差額は谷が持つ」
「冬至の翌日……」
「あと三日だ」
垂れ下がった線を見た。谷の中だけでも柱が何本も倒れている。尾根を越えた先がどうなっているのか、ここからは見えない。
「私が、峠まで線を見に——」
「その手でか」イルゼはアルノの左手を顎で示した。「椀も持てねえ奴が、氷の尾根を越えるって?」
戸口の脇から、声がした。
「あたしが行く」
ズデンカだった。黒い羽根を挿した髪に、氷の粒がついている。黒羽団の三十は、冬のあいだ湖の岸の芝屋根に分かれて住んでいた。
「峠の北から尾根の肩を回って、ハルデンの中継の小屋まで。かんじきで二日。書き付けを持っていく」
「この氷の上をですか!?」
「伯の記録じゃ、あたしは雪の日にしか動かないことになってる」ズデンカは空を見上げた。雲ひとつない、冬の朝の空だった。「今日は晴れてる。晴れてるうちに出る」
「数は、何て書く」ズデンカがイルゼを見た。
イルゼは帳簿を開き、その場で数を書きつけた。今満ちている壺と、これから満ちる見込み。見込みの欄で、ペンが一度止まった。
「……坊ちゃん。この冬、あと何日、呼ぶ気だ」
「北西の風が吹く日は、全部です」
イルゼはアルノの顔を見ずに、見込みの欄に数を書いた。書き付けを畳んでズデンカに渡すまで、一言も口をきかなかった。
ズデンカはかんじきの紐を締め直し、干し肉と麦を袋に詰めた。書き付けは油紙で二重に包んで、胸の内側にしまった。昼前、四人を連れて峠へ向かった。氷の張った坂を、五つの影が一列になって上っていく。アルノは戸口に立って、その影が二つ目の曲がり角に消えるまで数えていた。
* * *
ズデンカの隊が戻ったのは、七日後の夕方だった。
番小屋から、ボルクの寄越した若い者が先に下りてきて知らせた。隊は尾根の肩で吹雪に閉じ込められ、雪の穴で二晩をやり過ごした。ハルデンの中継の小屋に着いたのは、冬至の翌々日の朝だった。一日、遅れた。
戻ってきた五人のうち、二人は肩を借りて歩いていた。ベアタが二人の足の布を解くと、指の先が白く蝋のようになっていた。ベアタは湯を沸かさせ、ぬるいうちに足を浸けさせた。
「熱い湯は駄目だよ。凍えた指は、熱さを分からない。分からないまま煮えちまう」
ズデンカはオスヴィンの手紙をイルゼに渡した。
手紙は短かった。子爵は冬至の翌日の日没まで待った。知らせがないので、春の灯りの分を組合の油で手当てする証文に署名した。自分は子爵の前で、帳面を曲げるわけにはいかない。違約金は証文のとおりに請求する。
最後の一行だけ、字が乱れていた。一日だった。申し訳ない。
イルゼは手紙を二度読み、帳簿の借りの欄を開いた。違約金の額を書き入れる。前金としてもらった額と、ほとんど同じ数だった。
卓の端で、アルノは膝の上の左手を押さえていた。
「……ズデンカさん。二人の、足は」
「指は、残るかもしれない。残らないかもしれない」ズデンカは短く言った。「負けは負けだ。一日遅れた。覚えておく」
イルゼは白紙の頁に手紙の下書きを始めた。宛先は王家財務だった。追加の借り入れを願う。額と、利息と、返す見込みの日付。書き終えて、ペン先で額の数字を二度なぞった。
「どうすんだよ、これ」イルゼは誰にともなく言った。「借金を払うための借金だ。組合の爺さんの手口と、どこが違う」
「私が、もっと呼べば——」
「黙ってろ」
イルゼは顔を上げなかった。声も荒げなかった。アルノは口を閉じた。
戸口が開いた。冷たい風と一緒に、ボルクが入ってきた。外套の肩から、氷のかけらがばらばらと床に落ちた。ズデンカの隊が出たあと、ボルクはミロシュと二人で、峠からハルデンへ向かう線を柱ごとに見て回っていた。尾根の肩の先まで、七日かけて。
ボルクは卓の前で足を止め、帽子を取った。
「切れてるのは、四十か所だ」
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