第85話 塔守
峠の番小屋は、屋根の近くまで雪に埋まっていた。戸口から谷の側へ、人ひとりが通れるだけの溝が掘ってある。溝の先に、雷木の分かれの柱が立っていた。
柱の頭から銅線が三つの方角へ延びている。谷へ下りる線と、北の尾根を越えてハルデンへ向かう線。もう一つは西のミルデへ向かうはずの線で、二本目の柱で途切れ、その先は雪に埋もれていた。春まで、続きはない。
ミロシュは柱の足元にしゃがんで、線に積もった雪を払っていた。伯領の穀倉の村で、小作の家に生まれた。春に峠を越えて谷へ逃げてきて、夏の終わりに見張りの岩で伯の斥候に脚を射られた。傷は秋のうちに塞がったが、寒い朝は今でも膝の裏が引きつる。塔守になりたいと言ったのは、この柱が立った日だった。
符号はハンネに教わった。年下の子に指を叩かれながら覚えた。今はハルデンから来る拍を番小屋の針で受け、小屋の壺で谷へ打ち直すのが、夜の仕事だった。
「手が止まってる」
背中から、低い声がした。ボルクが、雪かきの板を肩に担いで立っていた。
「すみません。谷のほうの線、今夜も長いのが来るかもしれないと思って」
「財務官の貸しの話か」
「はい。字が少ないのに、中身が多いって、ハンネが怒ってました。俺が打ち直すと、ハンネより一拍遅いって、それも怒られます」
「遅いのか」
「遅いです。でも、間違えたことはありません」
「間違えないなら、遅くていい」ボルクは板を雪に突き立て、番小屋の裏手を顎で示した。「来い」
小屋の裏は谷のほうへ急に落ちている崖だった。夏なら、岩の間を伝って谷の坂の一つ目の曲がり角まで下りられる。今は一面の雪で、どこが岩でどこが空なのかも分からなかった。
ボルクはその縁に、雪の穴を掘らせた。人がしゃがんで入れるだけの穴で、奥に雷木の杭が一本打ち込んである。杭には麻縄が結んであり、縄は穴の底から崖の下へ、雪に隠れて延びていた。
「縄は、一つ目の曲がり角の岩に結んである。昨日、俺が下りて結んだ」ボルクは縄を片手で引いて、張りを確かめた。「小屋に何か来たら、ここへ入る。縄を持って下りる。登ってくる奴がいたら、縄を切れ。刃物は穴の中だ」
「何か、って」ミロシュは縄の先を目で追った。崖の下は、白い斜面が霞んでいるだけだった。
「何でもだ。雪崩でも、人でも」
「人は、冬の峠には来ません。伯爵さまの兵も、雪の坂は登れない」
「来るはずのない物が来た日に、備えのない奴から死ぬ」ボルクは縄から手を離した。「来るはずのない物のための穴だ。言ってみろ」
穴を覗き込むと、刃物は杭の根元に革に包んで置いてあった。ミロシュは唾を呑み込んでから言った。
「小屋に何か来たら、この穴に入って、縄を持って下りる。登ってくる者がいたら、縄を切る」
「もう一度」
同じことを言った。ボルクは頷かず、また「もう一度」と言った。三度目を言い終えると、ボルクは板を担ぎ直して小屋へ戻りかけ、途中で足を止めた。
「針と壺は、置いていけ」
「え。でも、壺は谷の——」
「壺は、また焼ける。お前は焼けん」それだけ言って、ボルクは小屋の戸をくぐった。
小屋の中は、炉の火だけが明るかった。壁の板に、名前が並んでいる。刃物で刻んだ字で、古い物は黒ずみ、端のほうは火の煙で読めなくなりかけていた。
夏に初めてこの小屋に来たとき、谷の者から聞いていた。ボルクの昔の部下の名前だ。十年と少し前、鉄の槍を担いで昼の尾根に登り、下りてこなかった人たちの。
炉の前で針の番をしながら、ミロシュはその列をぼんやり数えていた。数えている途中で、ボルクが炉に薪を放り込んだ。火の粉が上がって、壁の字が一瞬明るくなった。
「数えるな」
「……すみません」ミロシュは針に目を戻した。ボルクはそれ以上何も言わず、壁のほうも見なかった。
夜が更けると、ハルデンからの拍が来た。坑夫の娘の打つ拍は、日ごとに速くなっている。板に写し、写した字を小屋の壺で谷へ打ち直す。谷の針の前には、ハンネがいるはずだ。ハンネの返しの拍はいつもこちらより一拍早く来る。
打ち終えて、小屋の小さな窓から西を見た。雪の尾根の向こうに、伯領の平野が暗く沈んでいる。村はその奥の丘の陰で、ここからは見えない。母と妹が、あの丘の向こうで冬を越している。去年までは、自分もあそこで麦を量られていた。
「母さんたちの村、見える所に塔が立てばいいのに」
言ってから、口に出していたことに気づいた。ボルクは炉の向こうで目を閉じていた。眠っているのかと思ったら、閉じたまま言った。
「春になれば、線は西へも延びる」
「はい。そしたら、俺、いちばん西の塔に行きたいです。村の見える丘に」
「その前に、穴だ」ボルクは目を開けた。「さっき、何と言った」
「小屋に何か来たら、穴に入って、縄を持って下りる。針と壺は、置いていく」
ボルクは黙っていた。ミロシュは膝を抱え直し、炉の火を見ながら、もう一度頭の中で繰り返した。穴。縄。切る。置いていく。
「退き口は、覚えました」
ボルクは火かき棒で薪を一本、奥へ押し込んだ。
「覚えるんじゃない。使え」
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