第84話 冬の雷を呼ぶ
北西の風は、夜のうちに尾根を越えてきた。
明け方、アルノは寝台から跳ね起きて窓を開けた。冷たい風が顔を叩く。湖の真ん中の黒い水から、白い湯気がゆっくり立ちのぼっていた。尾根の肩に灰色の雲が一つ、低く、ずんぐりと居座っている。その底が、夜明けの光の中でも暗かった。
来る! アルノは外套を掴んで外へ走った。
壺置き場では杭の周りの雪がきれいにかき分けてあった。ゆうべのうちに、ヤネクと樽屋の孫が杭を中心に二型を十、輪にして並べておいた。どの壺の口にも雷硝子の細い枝が差してあり、枝の先が杭のほうへ向いている。
「おい、坊ちゃん」
イルゼが帳簿を抱えて追いついてきた。外套の襟を立て、白い息を吐きながら、アルノの左腕を睨んでいる。鎖骨の上の新しい雷紋は、外套に隠れて見えない。
「婆さんの数、言ってみろ」
「十本まで。十五で、止まる」アルノは指を折らずに答えた。秋に告げられてから、毎晩寝る前に唱えている。
「分けても、通るのは」
「私の体です」アルノは頷いた。「だから、今日は二本です。多くても、もう一本だけ。ベアタさんの数の、ずっと手前です」
「一本でやめろ」
「それじゃ、壺がちっとも満ちません!」アルノは壺の輪を指さした。「一本を分けて、この輪の壺に少しずつ入れるんです。ちびちび呼んでたら、雪解けに間に合いません」
イルゼは言い返そうとして、帳簿のハルデンの頁に目を落とし、黙った。
杭の前に立つ。雲の底が、尾根の肩から谷のほうへじりじりと張り出してくる。左手の指先に、火花を一粒灯した。ろうそくの火を移すのがやっとの、小さな火花。それを、頭の上の暗い底へ向けて差し上げる。
空が、答えた。
光と音が、ほとんど同時だった。太い一本が雲の底から降りてきて、アルノの頭の上で止まる。止まったように見えた。
体の中を、熱い水が駆け抜ける。指先から肘へ、肘から肩へ、肩から胸へ。胸の奥で、秋に覚えたあの感覚が目を覚ました。一本の中に、筋がある。束ねた糸のように、何本も。
「いち、に、さん、し——」
アルノは数えた。数えた筋を、一本ずつ外へ押し出す。
「ご、ろく、しち、はち、く、じゅう!」
雷が、頭の上で十に割れた。青い枝が輪になって降り、壺の口に差した硝子の枝へ、ひと筋ずつ吸い込まれていく。
雪が一斉に溶けた。杭の周りに湯気が噴き上がり、壺の輪が白い霧の中に沈む。霧の中で、十の壺がぼうっと青く灯っていた。
「……おいおい」雪の溝に伏せていた樽屋の孫が、顔を上げて呟いた。「領主さま、数えてたぞ。雷の真ん中で」
「数えないと、分けられないんです!」アルノは振り向いて叫んだ。左腕が、指先まで痺れていた。「見ましたか!? 十です! 十に分かれました!」
「見たよ。叫ばなくても見えてる」イルゼが霧の中へ踏み込み、壺に硝子の枝をかざして計った。青い糸が伸びて、消えるまで拍を数える。幾つか計り終えて、顔を上げた。
「三分の一だ。一つにつき」
「じゃあ、あと二本で、この輪が満ちます!」
その日の二本目は、昼前に来た。三本目を呼ぼうとした手を、イルゼが掴んで下ろした。
「今日は終わりだ」
「まだ、雲が——」
「雲は明日も来る。あんたの心臓は、明日の分まで前借りできねえ」
* * *
北西の風は、翌日も吹いた。湖の黒い水が、まだ凍りきらずに残っていた。雲は昨日と同じ尾根の肩に育ち、アルノは昨日と同じ杭の前に立った。二本呼んだ。新しい輪の壺が三分の一ずつ明るくなった。その翌日も吹いた。
四日目の朝、麦粥の椀を持ち上げようとして、手が止まった。椀の縁が、かちかちと歯に当たる。左手が震えていた。右手を添えても、震えは椀の中の粥に小さな波を立てた。向かいで、イルゼが帳簿を開いたまま、その波を見ていた。
「……寒いので」
「この部屋は、炉の真ん前だぞ」
アルノは椀を置いた。左手を膝の上に下ろし、右手で押さえた。押さえても、薬指と小指だけは、震えているのかどうかも分からなかった。
「今日は、やめとけ」
「風が、まだ北西です。湖も、まだ開いてます。こんなに続くのは、天気帳に一度もないんです」アルノは窓の外を見た。声が勝手に弾みかけて、押さえた。「明日には、凍るかもしれません。そうしたら、次はいつ来るか分かりません」
「風の話はしてねえ」イルゼは帳簿を閉じた。「あんたの手の話をしてんだよ」
その日も、北西の風は吹いた。アルノは二本呼んだ。棚の一段目が端から端まで青く埋まった。
夕方、ベアタが施療部屋にアルノを呼んだ。
いつものように手首を取り、目を閉じて脈を数える。数え終えると、白い紙に数を一つ書き、その下に昨日の数と、一昨日の数を並べた。どれも、ほんのわずかずつ違っていた。
「鎖骨の枝、見せな」
襟を開く。秋に一筋だった枝が、爪の先ほど、胸のほうへ伸びていた。ベアタの乾いた指が、その先をなぞった。
「何本呼んだ。今日で」
「毎日、二本です。三本目は、一度も呼んでません」
「数は、守ってる」ベアタは紙を畳んだ。「一日の数の、ずっと手前だ。あんたの言うとおりさ」
「はい!」
「休みがない」
襟を閉じる手が止まった。窓の外で、風が鳴っていた。北西の風だった。湖の上の黒い水は、夕暮れの中でまだ湯気を立てている。ベアタは道具箱の蓋に手を置いたまま、窓のほうを見ずに言った。
「……明日も、呼ぶのかい」
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