第82話 雪の下の一通
受け小屋は領主館の脇で雪に半分埋もれていた。
秋にヤネクが雷木で組んだ、芝屋根の小さな小屋だ。峠から柱を伝って下りてきた銅線が、ルドミラの焼いた白い碍子を最後に一つくぐり、小屋の土間へ垂れている。
線の端には硝子の針がつけてあり、地面に刺した短刀の刃と、指一本ほどのすき間を空けて向かい合っていた。屋根の上には、雷よけの鎖が一本垂らしてある。向こうの誰かが壺に線を当てるたびに、そのすき間を青い火花が跳ぶ。
ハンネは毎晩、そのすき間の前に座っていた。
峠が閉じた夜、番小屋のハルデンへの針に、試しの拍が二つだけ跳んだ。それきり十日、線は黙っていた。向こうの中継の小屋に人が上がれないのか、壺が尽きたのか、どこかで切れたのか。分からないまま、ハンネは炉の脇で膝を抱え、アルノは夜ごと戸口から顔を出した。
「来ました?」
「来てない」
「来たら、教えてくださいね」
「うるさい。来たら言う」
その晩も同じやりとりをして、戸を閉めかけたときだった。
ぱちっ、と音がした。
土間の奥で、青い火花が針のすき間を跳んだ。一つ。間があって、二つ、三つ。ハンネが膝から顔を上げ、炉の脇の板切れを引き寄せて、炭の欠片を握った。
「来た」
アルノは戸口に立ったまま息を止めた。数えたかった。声に出して、全部。けれど今、数えているのはハンネだ。そしてハンネの数え方は、アルノよりずっと速い。
火花が瞬く。長い間と、短い間。行の拍と、段の拍。ハンネの唇が声を出さずに動き、炭が板の上を走って、角ばった片仮名が一つずつ並んでいく。
「……ハルデン。コウフノムスメ。ハンネ、ゲンキカ」
「ハンネさん宛てです!」
「黙って」
峠が閉じる前、線を張る坑夫たちと一緒に古道を越えてきた娘がいた。十三か十四の、頬に黒い粉の残った娘で、番小屋の卓でハンネの隣に座り、昼の最後の荷が出るまで指を叩かれ通しだった。帰り際、娘は「冬のあいだに、いちばん速くなる」と言い残していった。
板を見下ろすハンネの口の端が、ほんのわずかに上がっていた。
背中のほうで、雪を踏む音がした。
振り向くと、領主館の前に人が立っていた。一人、また一人。半地下の家の戸が開き、毛布をかぶった顔がのぞいて、雪の上へ出てくる。子どもが母親の外套の裾を引っぱって走ってくる。
樽屋の年寄りが孫の背に負われて来た。添え木を巻いた脚を投げ出したまま、孫の肩を叩いて小屋の前で止まらせた。
誰も小屋の中へは入ってこなかった。小さな窓から、青い瞬きが漏れている。人々はその前に立ち、息を白くして、黙って見ていた。
去年の冬、峠が閉じてから雪解けまで、谷は谷だけだった。外で何が起きても、春まで分からない。谷で何が起きても、春まで誰にも届かない。
「……向こうの人が、打ってんのかい」
誰かが小声で訊いた。アルノは頷いた。
「ハルデンの鉱山町です。騾馬で三日の。今この拍を、向こうで打ってる人がいるんです」
「雪の向こうでかい」
「雪の向こうで!」
孫の背の上で、年寄りが窓の瞬きをじっと見ていた。白い眉の下の目が火花の跳ぶたびに細くなった。
「わしの親父の代には」年寄りはぼそりと言った。「峠が閉じたら、峠の向こうで身内が死んでも、春まで知らせは来なかった。雪が解けて、坂を下りてきた行商が言うんだ。お前んとこの叔母さんは、正月に死んだよ、とな」
「……はい」
「今のは、死んだ知らせか」
「ちがいます! 元気かって、訊いてます。ハンネさんに」
年寄りは鼻を鳴らした。それきり何も言わなかったが、孫の肩を叩いて帰ろうともしなかった。
火花の間が変わった。ハンネの炭が速くなる。
「アタイ。キョウノ、ハルデン。ドウ、ヒトタバ——」
数が続いた。銅の一束の値。麦の一袋の値。油の一壺の値。いつの間にか来ていたイルゼが、外套の前をかき合わせたまま帳簿を開き、ハンネの声を追って書き留めていく。
「で、麦はいくらだって」
「今、言った」
「もう一回」
「言わない。板、見て」
イルゼは舌打ちをして板を覗き込み、また帳簿に書いた。
拍がやんだ。最後に娘の名前の短い拍があって、それきり針は静かになった。
「返事、打ちますか!」アルノは土間に飛び込んだ。「谷からも送れますよね。壺はまだ一つ残ってます!」
「一つしかねえんだぞ」イルゼは帳簿から顔も上げなかった。「一通打つたびに壺の中身が減る。長え挨拶なんか送ったら、坑夫の灯り一晩ぶんを空に撒くことになる」
「短くします!」アルノは戸口の外を振り返った。「みなさん、向こうに、何て送りましょう」
雪の上の顔が、互いに見合った。しばらく誰も口を開かなかった。
「……谷は、みんないる、って」
年寄りの孫だった。祖父を背負ったまま、ぼそりと言った。
「春まで、誰も減ってないって」
ハンネがアルノを見た。アルノが頷くと、ハンネは壺の口に線の端を当てて、離した。当てて、離した。青い火花が、今度はこちらから向こうへ跳んでいく。
タニ、ミナ、イル。
小屋の外で、誰かが鼻をすすった。子どもが「もう届いた?」と訊き、母親が「まだだよ」と答え、ハンネが板から目を離さずに「もう届いた」と言った。
イルゼだけがずっと帳簿を見ていた。書き留めた銅の値と、麦の値。その横にペン先で何かを書き足しては、線を引いて消している。
「イルゼさん?」
「……この値」イルゼが顔を上げた。炉の火に照らされた目が、光っていた。「組合の帳面より、三日早え」
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