第81話 冬の勘定
峠が雪で閉じて、九日が過ぎた。
閉じた翌朝、アルノはハンネと二人、番小屋からかんじきを履いて谷へ下りてきた。あの夜、ハルデンへの針に跳んだ二つの火花のことを、下りる道々ずっと話していた。
それきり線は黙り、谷は朝から晩まで晴れていた。尾根の上に雲が出ても、薄い灰色のまま東へ流れていくだけで、塔にも金床にも育たない。湖は岸から白く凍りはじめ、真ん中にだけ黒い水が残っている。雷見の旗の竿は十本とも、赤も黒も上がらないまま雪をかぶっていた。
領主館の卓に、アルノは突っ伏していた。天気帳を頬の下に敷き、左手を卓の上に投げ出している。感覚のない薬指と小指が、頁の端から木目の上へはみ出していた。窓の外が明るいと、どうしてもまぶたが重くなる。
「冬眠かよ」
イルゼの帳簿が後ろ頭に落ちてきた。
「……起きてます」
「起きてる奴は、帳面に頬の跡をつけねえんだよ」イルゼは向かいの椅子を引いて座り、帳簿を開いた。「顔上げろ。冬の勘定だ」
頬をこすりながら体を起こす。去年の冬も、同じように叩かれた。あのとき卓にあったのは、屋根裏から届いた帳面の束だけだった。今はその横に、谷で二冊目の天気帳と、イルゼの帳簿と、ハルデンとの証文が並んでいる。
イルゼは証文を指で叩いた。
「ハルデンの年契約だ。雪解けに、中身を満たした二型を百二十。向こうの坑道が三十、ひと月に一つずつ替えて、四か月分」
「百二十……」
「前金は、とっくに麦と銅に化けてる。雪解けに数が揃わなきゃ、足りない分は違約だ。子爵は組合の油を買い足して、その代金をこっちに回してくる」
「空の壺なら、揃ってます!」アルノは窓の外を指さした。「エーミルさんに習った巻き方で、ルドミラさんの窯で焼いたんです。峠が閉じる前に、ちょうど百二十!」
「空の壺を並べたって、坑夫の足元は一寸も照らねえよ」
「じゃあ、硝子は! 冬のあいだに掘って、春に——」
「掘るのは勝手だ。エーミルの爺さんも買う。ただし峠が開いてからだ」イルゼは帳簿の別の頁を開いて見せた。「去年の冬に掘った硝子は、春に火付けに半分焼かれた。今年掘った分が金になるのは、早くて春の終わりだよ。雪の下の麦は、それまで待っちゃくれねえ」
外套を引っかけて外へ出ると、イルゼが舌打ちをして、帳簿を抱えたままついてきた。
壺置き場は領主館の裏手、雷よけの杭の輪の内側にある。秋のうちにヤネクが雷木の棚を三段に組み足し、ルドミラの窯から出た二型の殻を並べておいた。
芯の硝子はエーミルの工房で覚えてきたとおり、逆向きに二重に巻いてある。雪が棚板に積もり、壺の口にも白い帽子を載せている。百二十の口が揃って空を向いていた。
アルノは一つの壺の雪を払って覗き込んだ。二重に巻いた硝子の芯が、底まで透きとおっている。光の筋は一本も残っていない。
「こいつ一つ満たすのに、杭の雷がどれだけ要るか、覚えてるか」
「一本を受けて、満ちるのは三つくらいです」
「で、去年の冬、谷の杭に落ちたのは」
アルノは黙った。天気帳を開くまでもなかった。去年の冬の帳面は、ほとんど白い頁のままだ。北西の風が尾根を越えた日にだけ、一本か二本。たいていは尾根に落ちて、村の杭まで下りてきたのは数えるほどだった。
「峠で言ったろ。杭に落ちるのを待ってたら、雪解けまでに半分も満たねえ」イルゼは帳簿の欄を爪でなぞった。「締め出しで、二型のほかの客もいねえ。灯りを売って食いつなぐ手もねえ。そのあいだにも、王家への借りの利息は、雪が降ろうが峠が閉じようが一日も休まず積もる」
壺の縁に指を当てた。冷たい。左の薬指で触れたはずの縁は、何も伝えてこなかった。
雪を踏む音がして、ハンネがやってきた。小石の壺を二つ、胸に抱えている。秋からは受け小屋で拍を読む係の頭になった。それでも石の壺は手放していない。
「今日も、なし」ハンネは片方の壺を振った。からりとも鳴らなかった。「昨日も、なし。峠が閉じてから、ずっとなし」
「ずっと、なしですか……」
「賭ける? 明日も、なし」
「賭けません」アルノは空を見上げた。一面の、薄い青だった。「……ハンネさんが勝つので」
「空に貸しがありゃ、取り立ててやるんだがな」イルゼが鼻を鳴らした。
アルノは笑えなかった。棚の端から端まで、空の口を目で数えていく。数えるのは好きだった。けれど中身のない物を数えるのは、ちっとも楽しくない。
尾根を見た。黒鉄尾根は雪をかぶり、尖った穂先だけを黒く空に突き出している。冬の雷は少ない。そのかわり、一本が太い。去年の冬に雪原へ落ちたあの一本は、夏の雷の三倍はありそうだった。あれが杭に来ていたら、壺はいくつ満ちただろう。
尾根には落ちる。杭には来ない。
秋、尾根の肩で、一本の雷を三十に分けた。雷は頭の上で割れて、数えたとおりの場所へ突き立った。落ちる場所は、選べる。
「イルゼさん」
「何だよ」
「尾根に落ちる雷を、杭まで連れてくればいいんですよね」
イルゼの顔から表情が消えた。帳簿を閉じる音が雪の上でやけに大きく響いた。
「伯爵の手紙、覚えてるか」
「覚えてます。呼びすぎません。十本までです」
「毎日数えるって言ったのも、覚えてるな」
「はい!」返事をしてから棚の前にしゃがみ込み、アルノは雪の上に指で線を引いた。尾根から、杭へ。杭から、壺へ。線は途中で何本にも分かれ、壺の数だけ細くなっていく。分かれた先を一本ずつ数えかけて、指が止まった。
「冬の雷を、どうやって壺に入れましょう」
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